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『WORKSIGHT[ワークサイト]21号 詩のことば Words of Poetry』〜巻頭言・山下正太郎「詩を失った世界に希望はやってこない」

☆mediopos3266  2023.10.27

「詩」と称されているものは
世の中に流布してはいる

しかし私たちは
「詩」に出会えているだろうか

「詩」とは
「伝達」の言葉ではない
「形成」であり「創造」の言葉だ
ポエジーがポイエーシスから生まれるように

そしてそれは
読まれるたびごとに
一回性のポイエーシスとして
生成されるものであってはじめて
「詩」として働く言葉となる

詩人の石垣りんは
「詩は虹のように美しい」から
「詩は虹を書くことだ、と考えてしまう」が
そうではないという
「虹をさし示している指、
それがどうやら詩であるらしい」という

世の中の言葉のほとんどは
「虹」を書こうとするもので
それは「伝達」の言葉である
そこには読まれるたびごとに生成される
一回性のポイエーシスはない

世の中に流布している
「詩」と称されているものの多くは
「詩のようなもの」であったとしても
はたして「詩」となり得ているかどうかはわからない

ぼく自身も
「伝達」の言葉としての日常性には回収されない
「虹をさし示している指」となるような
「詩のようなもの」を書いてみたいとは思いながら
それを「詩」であるなどと思って書いてはいないのだが

その言葉が「指」となって
そのときどきに「一回性のポイエーシス」を
生成させることができればという願いをなくしてはいない

さてコクヨの『WORKSIGHT[ワークサイト]21号』で
「詩のことば Words of Poetry」が特集されている

巻頭言は編集長・山下正太郎による
「詩を失った世界に希望はやってこない」

山下氏は「この特集を組む前に
まったく詩には興味も知識もなかった」

「どう接すればいいかわからなかった」が
「そもそも接し方を学ぶようなものではない」
そう思うようになってきたのだという

それは「過去の経験則だけで生きる世界」の
言葉ではないからだ
「これまで携えてきた知識の澱のようなもの」は
「新しい可能性を見つめる目を奪」ってしまう

その「新しい可能性を見つめる目」こそ
先の表現でいえば虹を示す「指」こそが
世界に希望をもたらしてくれるものではないか

現代は「論理国語」のような
「伝達」のための言葉だけで事足れりとされてしまう
そんな言葉しか求められない時代へと向かっている

必要なことは「検索」でコピペし
AIを使って文章作成を行うばかりのとき
はじめて世界に出会えたときのような
生まれたばかりの言葉は存在し得ない

「希望」は「指」の先にある
それは常に創造され続けるものであるだけに
定義を常に免れている
まだ見ぬその「先」こそが
常に生まれ続けている「希望」にほかならない

■『WORKSIGHT[ワークサイト]21号 詩のことば Words of Poetry』
 (コクヨ/学芸出版社 2023/10)
 ◉巻頭言 山下正太郎(WORKSIGHT編集長)
 「詩を失った世界に希望はやってこない」

(意志)

「子どもを職業に例えるならそれは詩人だろう。何かに属するでもなく、常識にしばられず、世界をながめ、みずみずしい言葉でもって新しい世界を浮かび上がらせる。ちまたの子どもを見てそんなことを心配しないように、詩人の存在はいったいどうやって食べているのか想像させない軽やかさがあるし、実際にすぐに思い浮かぶ詩人の顔もじつにひょうひょうとした笑顔を携えている。詩人が生業とする、詩を読むこととはいったい何なのだろうか。詩人の石垣りんはこう述べている。

   そういう人たちの書いたものを読んでいつも感じるのは、詩は詩的なことを書くものだ、と思っているらしいこと。たとえば詩を見て虹を感じた、とします。詩は虹のように美しい、さて私も詩を書こう、詩は虹を書くことだ、と考えてしまう。どうもそうではないらしいのです。虹を書くのは大変です。虹をさし示している指、それがどうやら詩であるらしいということ。

詩は赤子の動かす身体や声のようにどうやら理屈に先行するらしい。世界に身を投げ込む意志に詩が宿るのである。」

(世界)

「人間が言葉を理解するということに関して、認知科学の領域で重要とされる概念に「記号接地」というものがある。もし子どもが本当に言葉の意味をアプリオリに学べる能力があるとしたら、原理的には辞書を渡せば済むはずである。しかし実際にはそれがただのインクの染みにしかならないのは、言葉の意味の理解には、言葉と現実の世界がつながれている必要があるからだ。具体的には身体性と関連の深いオノマトペなどをその足掛かりとして意味と実体をつなげていくという主張である。

 しかし言語理解と詩との関係を考えるとき、記号接地はどうも腑に落ちないところがある。例えば一編の詩のなかで鮮烈な言葉に出会うとき、接地と呼ぶような強固な足場から意味が立ち上がるというよりも、これまで描いていた世界からずるりと引きはがされ、どこか知らない場所にふわりと置き直されるような感覚なのだ。決して言葉の意味が先にあるのではない。言葉によってわたしたちが方々に弾かれていく。

 哲学者ウィトゲンシュタインに大きな影響を与えた文筆家カール・クラウスは、言語の役割には「伝達」と「形成」のふたつがあると言う。前者は記号接地の概念はじめ多くの学説が言葉の本質的な意味性を主張するのに対して、後者は言葉が置かれることで意味が後から立ち上がるさまを指す。そう考えると、詩の多くが短い細切れの文章で、さながら飛び石のように紙に配置されるのも「形成」という観点に立つと腑に落ちる。わたしたちは言葉同士の響き合う余白に新しい意味を読み取っていく」

(美)

「詩は日常の世界を一変させうる。そしてときにわたしたちの生き方を左右する。運が悪ければ人生を棒にふることもある。幸い、大抵の優れた詩人は人びとを連帯させ、真実をあばき出す。ゆえにそれは為政者や経営者といった権力をもつ者たちに疎まれることにもなる。言葉の意味を固定することを良しとせず、ゆらぎを加え、秩序をくずそうとする。」

「あらゆる言説や監視の目に囲まれる今日、わたしたち自身の言葉はいかに私的だと考えたとしても、おびただしい数の言説に知らず知らずのうちにまとわりつかれている。政治家や経営者のみならず、ソーシャルメディアにあふれる言葉も含まれるだろう。そして詩はわたしたちをひとりの個人に還元する。であるからこそ、他者の言葉に差異や違和感をおぼえ、そこにコミュニケーションの余地を見いだすことにつながる。ひいては新しい世界をつくることができるのである。」

(生活)

「詩がわたしたちを個人へと還元するならば、それは詩人だけのもち物であってはならないだろう。短歌や俳句がたしなみであった時代までさかのぼらなくとも、かつて詩は人びとの身近に存在していた。」

「つづられるゆたかな言葉は決して文学的な創作活動を通じて生まれたわけではない。日々、働くなかで、自然と対峙するなかで生まれてきたのだ。しかし今日わたしたちの周りから詩の世界はずいぶんと遠のいているように思う。言葉はなぜ奪われたのだろうか。

 つくり手と同時に、受け手が民衆のなかに共存していた未分化の時代が過去にはあった。分業による生産の発達に照応して創造の作業の専門化がすすむにつれ、民衆はもっぱら受け手にまわされ量としてあつかわれる。大衆を消費者として組織することで文化創造も企業となる。民衆のなかのつくり手はしだいに萎縮し、工作のわざもほろんでいった。民衆が沈黙したのはいつのときも、外部の力におさえられたからである。

 こうして現代は待つことを許さなくなった。時間、空間など、ひとたびすき間が空けば、そこにわたしたちのアテンションを奪うものがするりと忍び込んでくる。ことさら自分の意思や自由な行動が強調される時代にあって、抗いようのないものや変化についてじっと待ち構えることができなくなっている。すべては自分の責任のもとにすぐに解決されることを命令されているのだ。詩の言葉は問題を解決しない。むしろ問題を味わい、ピントをずらすことで、ときに連帯し、ときに抗わずに逃げるための術なのだ。」

(希望)

「正直に言えば、この特集を組む前にまったく詩には興味も知識もなかった。どう接すればいいかわからなかったのだ。しかし、いまはそもそも接し方を学ぶようなものではないと思うようになってきた。意気込んで読み解こうとしてもするりとかわされてしまう。意気込む頭を少しだけ解剖すれば、そこにはこれまで携えてきた知識の澱のようなものしか存在していない。詩はむしろ空っぽの状態で自分のなかを通り過ぎさせるくらいがちょうどいい。言葉に出会うのを待つしかない。ずいぶん悠長な話である。しかしもしこの世から詩が失われているとしたら、それはわたしたちがこの世界をみずから深い闇でおおってしまっているからに他ならない。新しい可能性を見つめる目を奪われ、過去の経験則だけで生きる世界だ。そんな詩を失った動かない世界に希望はきっとやってこない。」

◎山下正太郎|Shotaro Yamashita
本誌編集長/コクヨ ヨコク研究所・ワークスタイル研究所 所長。2011 年『WORKSIGHT』創刊。同年、未来の働き方を考える研究機関「WORKSIGHT LAB.」(現ワークスタイル研究所)を立ち上げる。2019年より、京都工芸繊維大学 特任准教授を兼任。2022年、未来社会のオルタナティブを研究/実践するリサーチ&デザインラボ「ヨコク研究所」を設立。

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