蜷川 順子編 『ハート形のイメージ世界:見えるものと見えないもの』
☆mediopos2654 2022.2.21
冬季オリンピックをみていても
選手たちがカメラの前で
手でハートの形をつくるシーンが多く見られたように
ハート形は全世界的に認知されている
いうまでもなくハート形は「心臓」の形からくる
「愛と温かさの象徴」である
ハートは古代世界から存在していた精神的トポスであり
西欧中世においてイエス・キリストの
血と傷への信心を受けとめる「聖心」のハート形となり
やがてだれにでもその意味の伝わる表象となっていく
これほどに広く深く浸透している
「ハート形」であるにもかかわらず
こころや魂が今日では科学的には「ハート」からではなく
「脳」で生みだされるとされるようになっている
感動すると胸が熱くなるのも
脳が心臓に作用するということらしいが
おそらく「見えない」心臓は存在しない
ということが前提となっている
科学は「見えるもの」しか扱えないからだ
「見えないもの」は科学的には存在しない
または科学では説明できないために排される
本書は2018年におこなわれたシンポジウム
『ハート形のイメージ世界:見えるものと見えないもの』が
7つの論考として日本語と英語で収録されたもので
(以下の引用で概略を紹介してある)
「ハート形のイメージ世界の意義を、
人間を構成している切りはなすことのできない二つの領域、
すなわち身体的領域と精神的領域の有効な反映として描き」
「哲学的、芸術的、歴史的、宗教的視点から幅広く考察する」
というのがねらい
「見えるものと見えないもの」
という副題がついているのは
「見えるもの」については「視覚的記録をとおして」
「ハート形登場の起源や理由に関する問い」を歴史的にたどり
「見えないもの」については
「ハート形からの作用」や「ハート形に対する人々の反応」を
たどるという意味のようだ
収められた論考のなかでは
第6章・秋庭史典「二つの心臓」が
「ハート形」が現代において「見えないもの」として
どのように働いているかについて示唆的である
紹介されている事例のひとつである
ワークショップ《心臓ピクニック》において
企画者の一人・渡邊淳司は
「わたしたちの時代が心臓にもっているイメージ、
あるいは心臓に求めているものについて」触れているのだが
心臓のイメージは現代においては
「科学技術に疲れた/憑かれた現代が求めているもの」
なのではないかという
「脳」による科学技術は
「ハート」をもたないがゆえにこそ
「ハート」が求められているということなのだろう
だからこそ選手たちもカメラのまえで
過剰なまでにハートの形をつくり
「愛と温かさ」を伝えようとするのだ
■蜷川 順子編
『ハート形のイメージ世界:見えるものと見えないもの』
(晃洋書房 2021/11)
(蜷川 順子「序文 ハート形のイメージ世界:見えるものと見えないもの」より)
「よく知られている−−−−上部がへこんで底が尖っている−−−−ハート形は、われわれにとって身近でありふれたものでありながら、それがあるだけで周囲の意味を大きく変えることもある、驚くべき不思議な力をもった視角記号あるいは象徴記号である。ハート形は、幅広い文脈で、さまざまに用いられる。ロマンチックな愛情を表現することもあれば、献血キャンペーンで人々の善意に訴えたり、逝去した友人への弔意を表したりすることもある。こうしたことからハート形には、人々の間で強い感情を伝えあう力が期待されているように思われる。そのような力を根底で支えるのは、古今東西のさまざまな文化圏において確認される、身体的な心臓と、精神的な情動やこころや魂の在処とを同一視する考え方であろう。たとえば日本では、神社の鈴の形は心臓に起源があり、それに由来するといわれている。また土偶の中には、その意味はいまだ解明されていないが、ハート形の輪郭をした頭部をもつものがある。実際、たまたまそのように見えるだけのチャンス・イメージもあるのだが、われわれはすでに長い間ハート形の力を経験してきたので、知らず知らずの内にそうしたイメージから、太古の宗教に関係しそうなハート形を取りだしているのかもしれない。いずれにしてもハート形は、身体的な心臓の形に由来しながら、その極度に単純化された形に託された精神性の象徴として機能する。
今日では、こころや魂の源は脳にあり、愛や怒りやその他の強い情動は脳に作用して心臓の鼓動を早めるような身体的仕組みのあることが解明されている。しかしながら、このような科学的知識があるにもかかわらず、ハート形のイメージ世界はおそらく、これまで以上に協力に広範に、その機能を拡大しつづけているようだ。
本書は、2018年に関西大学で開催された第69回美学会全国大会に合わせて、同年10月6日に関西大学文学部主催で行われたシンポジウム『ハート形のイメージ世界:見えるものと見えないもの』に基づいている。このシンポジウムのねらいは、ハート形のイメージ世界の意義を、人間を構成している切りはなすことのできない二つの領域、すなわち身体的領域と精神的領域の有効な反映として描きだし、それを哲学的、芸術的、歴史的、宗教的視点から幅広く考察することにあった。「見えるものと見えないもの」という副題は、伝統的な西洋の二元論を想起させるかもしれないが、ハートは身体と精神のいずれの意味も内包することを思いだしておきたい。したがってここでは、対立する二つの言葉は、見える影と見えない内包を単純に指している。ただしこの対立は、(・・・)本書のさまざまな著者達の論考の中で、異なる展開をみせ、ときに消滅さえしているのである。
見えるものは、視覚的記録をとおして歴史的にたどることができるため、良く知られたハート形登場の起源や理由に関する問いを引きおこす。見えないものも、一般の精神的、身体的生活や個人的、社会的生活に対するハート形からの作用や、あるいは、ハート形に対する人々の反応を合わせて、幅広くたどることができる。」
※テオドーロ・デ・ジョルジオ(サレント大学)「第1章 キリストの聖心に対する信心:神学的図像学的研究」について
「イタリアの美術史家テオドーロ・デ・ジョルジオが、イエスの聖心の初期の歴史を扱う。精神的トポスとしてのハートは西洋では遅くとも古代ギリシャ時代から知られており、デ・ジョルジオはイエスの聖心に対する信心の長い準備期間を、とりわけそれがドイツの修道女にとって思弁の対象ちょなった13世紀以来の展開を含めて、手短に概観している。彼が、目に見えるハートの形を扱うのはおもに宣教や信心に関わる環境で用いられた絵画においてである。たとえばポンペオ・バトーニによる《イエスの聖心》をめぐって、それが集合的な西欧キリスト教の想像力の一部であることを強調する。この伝統を受けとめた人々は、この作品中に蓄積されたさまざまな意味を読みとり。その意義を深めることができるのである。」
※ヴィトール・テイシェイラ(ポルトガル・カトリック大学)「第2章 ハート形:ポルトガル海上帝国におけるハートの象徴,図像,芸術.日の出に向かうハート」について
「ヴィトール・テイシェイラは、世界中に広まっているハートのイメージのさまざまな側面を論じている。ハート形がキリスト教図像において象徴記号として用いられはじめた起源をめぐって、聖心崇敬の最初の造形的表明はフランスにおいて1308年になされたという説を紹介する。その一方で世俗的装いのハート形は、宮廷愛を扱う中世文学の文脈において『洋梨物語 La Roman de la POire』(1250年)に最初に登場したとみなす。彼が論じるのは、ハート形がいかに愛に満たされ、女性的な心情から現れたかということである。周知のごとく、ポルトガル人は世界の「発見」と大航海に着手し、まもなくポルトガル海上帝国のキリスト教化のポロセスを開始した。テイシェイラは、ポルトガルの歴史的、文化的、神学的題材に由来するハート・イメージを吟味し、それらと中国などの異文化との出会いや融合を調査し、さらに歴史的資料を用いてこうしたイメージに対する彼らの反応も浮き彫りにする。」
※パトリック P. オニール(ノースカロライナ大学チャペルヒル校)「第3章 聖心への信心:アイリッシュ・スタイル」について
「第3章では、パトリック・オニールが、(・・・)アイルランドにおける聖心への信心に焦点をあてる。彼が強調するのは、アラコクの霊的経験が近代のイエスの聖心イメージの発展においていかに重要な役割を果たし、それに対する新しいタイプの信心を生みだしたかということ、および、19世紀に一連の革命によって困難に直面したカトリシズムが、聖心のようなイメージを用いて人々の心に訴えようと新たな局面をもたらしたことである。」
※カトリーン・サンティング(フローニンゲン大学)「第4章 受肉したハート:ハートに関する中世思想の特質」について
「カトリーン・サンティングは、ハート形の人気を生みだしたおもな構成要素は、歴史的に絡みあう三つの撚り糸、すなわち、中世の医学哲学的推論、キリスト教という宗教、宮廷愛だとしている。彼女はこれらのうちとくに最初の要素に注目し、中世の医学的哲学的領域で頻繁にかなり現実的なハート形に出くわす経験に基づいて、「ほたて貝風」ハート形と実際の円錐状ハート形との違いを強調しすぎないように注意を促している。「ほたて貝風」ハート形、すなわちこの序文冒頭で述べたようなハート形の人気は、そのアイコン的な特質とハートだと感受できることに由来する。彼女は、アイコン的で、さまざまな媒体に馴染みやすいハート形の特質によって、これほどありふれたものとなり、事実上あらゆる人が、温かさと愛に関するその基本的意味を理解できるとするが、文化間の相違も強調している。」
※塚本麿充(東京大学)「第5章 皇帝の身体と聖心イメージ:佛教と中国の身体観の変容」について
「塚本麿充は、中国の聖心イメージに関して、古代において聖人のハートと皇帝のハートという二種の含意があったと述べている。しかしながら、これらの特別な概念を論じる前段階として、「気」の集合と離散によって説明される、中国における人間の身体観や生命観の展開を概観する。身体は仏教の中国への到来以降、徐々に重視されるようになった。仏教徒たちはまず、仏足のような仏陀の痕跡をその象徴記号として採用し、次に火葬した遺骨やその容器(仏舎利塔)に崇敬を集中させた。その後、仏陀や遺灰を練りこんだ高僧の仏像が、崇敬の対象となった。」
※秋庭史典(名古屋大学)「第6章 二つの心臓」について
「第6章では秋庭史典が、日本の現代芸術から二つの事例を取り出し、ごく新しい関心に目を向ける。ひとつは、山口啓介の絵画作品《心臓》、もうひとつは、渡邊淳司らによるワークショップ《心臓ピクニック》である。彼はそれぞれの作品を叙述し、これらの作品を取りまく言説と、この言説が用いる推論のタイプにまで考察を拡げる。絵画作品については、これまでの研究者が当てはめた「分析的思考」あるいは「アナロジー」に注目する。ワークショップ作品については、企画者の一人、渡邊淳司が、ワークショップの活動を説明するために用いた「アブダクション」に注意を向ける。彼は、ハートのイメージを用いたこれらの作品が、人々がテクノロジーに疲れているか溺れているかのいずれかである現代に関係のある、さまざまなアナロジーやアブダクションを刺激するものだと結論づけている。
※杉山卓史(京都大学)「第7章 近世美学における「ハートの言語」:バウムガルテンとカント」について
「第7章では杉山卓史が、「理性の言語」に対立する「ハートの言語」というトポスに、ハート形とそのイメージ世界を論じる鍵を見いだしている。この対立は18世紀の美学にしばしば登場するが、決して主要概念になったことはない。杉山は、バウウガルテンとカントにおける「ハートの言語」を、美学的観点から論じる。彼らは神学と修辞学の相互作用という枠組みを共有しているが、両者には重大な違いがある。バウムガルテンにとって、それは情感理論の影響を受けているが、目に見えないものに語りかけるハートという、敬虔主義的イメージ世界からの作用もある。杉山は、カントが崇高理論をすすめるにつれて、その「ハートの言語」に変化が生じたとする。すなわち、バウムガルテンの時代に生じた神学と修辞学の化学反応は、カントにおいても、独自の活性化を続けたと結論づけている。」