源河亨『愛とラブソングの哲学』
☆mediopos3282 2023.11.12
源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』を
mediopos2911(2022.11.6)でとりあげたことがある
「悲しい時には、悲しい曲を聴くのがいい」といわれるが
ネガティヴな感情を抱いている時には
逆のポジティヴな陽気な曲を聴くよりも
同質の悲しい曲の方を聴くほうが
むしろネガティヴな感情を軽減させる
音楽療法における「同質の原理」は
同質の感情をみずからに映すことで鎮めるように
「悲しい曲」によって
みずからの「悲しい」という感情を
いわばメタ・レヴェルから見ることである
要点はおおよそ以上だが
この著書では「歌詞」は問題とされていなかった
新刊『愛とラブソングの哲学』では
歌詞をふくめた「ラブソング」がテーマとなっている
本書を著すきっかけとなったのは編集者から
「ラブソングを聴くと恋がしたくなるのか?」
という本が書けないかと依頼がきたことからだという
本書を読んで「ラブソング」のことが
よくわかるようになったとは思えないけれど
「愛とラブソング」の「哲学」とあるように
主にラブソングについて理解するための「愛」と
「ラブソング」が成立する条件や効果について
理解するためのちょっとしたガイドにはなりそうだ
本書は第Ⅰ部が「愛とは何か」ということで
「愛」についての考察であり
第Ⅱ部が「ラブソングとは何か」ということで
「ラブソング」についての考察となっている
「愛とは何か」とあるが
ここで考察されているのは
「愛」の宗教的な深みの探求といったことではなく
あくまでも「ラブソング」に反映される類の
「愛」についてである
まず愛と感情の違いについて
感情が持続することが難しいのに対して
愛は長く持続することもあるように
愛は感情の枠を超えている
さらに人を愛する理由は「代替不可能」で
説明できない「無合理」なものである
(「非合理」「不合理」ではなく「無合理」というのは面白い)
そして愛は「生物学的な仕組みからは導かれ」ず
生物学的な仕組みと
社会的な仕組みが合わさって成立する
これは愛が感情とは異なっていることにも関係している
特に!!と思える内容はないが
以上の「愛とは何か」の考察を踏まえて
「ラブソング」について考察されている
まずラブソングの「楽曲」について
「愛の優しさを感じさせる曲は、
優しい気持ちにある人の喋り方と同じように、
テンポがゆっくりとして、音程の上下幅は少なく、
全体的な音高は低い傾向にあ」るが
「「単なる優しさ」ではなく
「愛の優しさ」を聴き取るためには、
背景情報との連合が必要」である
楽曲だけでは
「ラブソング」としては成立しがたいということだろう
やはり歌詞がそこにあってはじめて
「ラブソング」は成立するところが多分にある
その例(半ばゴシップ的ではあるが)として
ジョージ・ハリスンの《フォー・ユー・ブルー》と
エリック・クラプトンの《いとしのレイラ》が
挙げられている
背景事情を知らなくても
《フォー・ユー・ブルー》からは優しさを
《いとしのレイラ》からは怒りを
感じることはできるだろうが
より深く受容するためには
「作曲の事情に関する背景情報と楽曲が
連合している必要がある」
(その事情に関しては、引用部分を参照のこと)
続いてラブソングの「歌詞」についてだが
歌詞に込められた「愛」の知識によって
「それぞれの時代や文化の愛の概念」が
ラブソングによって広められると考えられ」る
「歌詞」には「聴き手の気持ちの代弁」する
という特徴がある
つまり「ラブソングの歌詞がその心の状態に
ぴったり会う言葉を与えてくれることで、
混乱が解消されたり、自分が恋に落ちている
という自覚が得られたりする」のである
さらに「失恋ソング」には
「癒し」や「記憶の改変」といった効果もあるが
「気持ちの代弁」もそうであるように
前著『悲しい曲の何が悲しいのか』でも
述べられていたような
みずからの感情をメタ・レヴェルから見ることによる
効果でもあると思われる
(物語化とでもいったほうが適切かもしれないが)
以上とくに驚くべき哲学的考察は見受けられないが
こうした側面をふまえながら
「ひとはなぜラブソングを求めるのか?」と問うとき
そこには愛の生物学的なものに由来する側面と
それがもとになって「愛」という概念が
社会的に学習されることで生まれる側面があり
そこに「ラブソング」という現象が
根強く存在し続けることになるのだと思われる
ひとがひとであるがゆえの「愛」は
「他者性」がその根底にある
つまり自我の成立のために「他者」を求めるわけだが
その「愛」にはさまざまな現れ方がある
たとえばただ求めるばかりの愛があり
憎しみを超えて許す愛があり
みずからをこえて与える愛があり
そして愛そのもののなかにある愛・・・
といった愛があるだろうが
それらはある意味で「自我」の働きによって
みずからの「感情」を変容させることで
得られてゆく「愛」だということができる
現代において「ラブソング」は
そうした自我との関係で生まれる「愛」のかたちを
さまざまな感情のはたらきのなかで
無意識的であるにせよ意識的であるにせよ
とらえなおしそれを浄化しそこから学ぶために
多くのひとに求められているのだろう
■源河亨『愛とラブソングの哲学』(光文社新書 2023/10)
(「第Ⅰ部 愛とは何か」より)
※愛と感情の関係
「愛は感情の一種だと考えられがちですが、愛は感情の枠に収まるものではありません。誰かを愛しているとき、私たちは、その人のことばかり考え、会いたいと望み、実際に会いに行くという行動が生まれ、会えれば喜びが、会えなければ悲しみが生まれます。愛はその対象となる人に関する思考・欲求・行動・感情を生み出す潜在的な基盤です。また、「あの人を一〇年間ずっと愛している」と言えるように、潜在的な愛はかなり長期間にわたって持続するものですが、同じ感情がそれほど長く持続し続けることはありません。」
※人を愛する理由
「誰かを愛する理由を尋ねられたとき、「優しいから愛している」といった理由が思い浮かぶでしょう。しかし、もしそれが本当に理由になっているなら、より優しい人と出会ったらその人を愛するようになるべきですし、愛する人が優しくなくなったら愛するのをやめるべきということになります。しかし、そう簡単に愛を捨てることはできません。愛する人は代替不可能なのです。ですが、代替不可能である理由は説明できないものであり、その点で愛は「無合理」なものと考えられます。」
※愛の生物学的側面
「生物としての人間が抱く愛は、子供を作って育てたり仲間との結びつきを作ったりするために獲得された生物学的な仕組みです。こうした生物学的な仕組みはもともと人間に備わっているものであり、納得できる理由があるかどうかは問題になりません。愛が無合理なのは生物学的な仕組みに基づいているからです。
ですが、生物学的な愛は長続きしません。子育てのための愛は、子供がある程度成長したら消えてしまいます。しかし、私たちが抱いている愛の概念には「生涯を共にする」という永続性が含まれており、それは生物学的な仕組みからは導かれません。」
※愛の社会的側面
「結婚はもともと労働や経済のための長期的なパートナー関係を作る社会的な仕組みであり、恋愛とは別で行われていました。しかし、近代になって恋愛と結婚が結びつくと、愛にも長期的なパートナー関係が求められるようになりました。愛は結婚という社会制度と一体化することで、生物学的な仕組みでは単肥できなかった永続性を獲得したのです。」
※愛の本質
「愛は生物学的な仕組みと社会的な仕組みが合わさってできたものです。」
「愛は、自然の世界にあった生物学的仕組みにルーツをもちつつも、それぞれの時代や文化の価値観を反映して変化していきます。多様な心の状態や行動がそれぞれの社会の理学関係に依存して「愛」とみなされていて、すべての愛に共通する「愛の本質」のようなものは存在しません。」
(「第Ⅱ部 ラブソングとは何か」より)
※ラブソングの楽曲
「楽曲のうちに愛のサインを聴き取るうえでは、喋り方との類似性が鍵となります。愛の優しさを感じさせる曲は、優しい気持ちにある人の喋り方と同じように、テンポがゆっくりとして、音程の上下幅は少なく、全体的な音高は低い傾向にあります。私たち人間は他人の喋り方からその人の感情を推測する能力をもっていて、その能力が音楽を聞く場合にも働くことで、音の配列が心の状態のサインであるかのように聴こえてしまうのです。
ただし楽曲に「単なる優しさ」ではなく「愛の優しさ」を聴き取るためには、背景情報との連合が必要です。人間が音の並びから聴き取れる心のサインは数種類しかなく、(・・・)多用で複雑なあり方をしています。愛が顕在化した感情のサインは音響学的特長に反映されますが、潜在的な愛そのものは音響的特長をもちません。そのため聴き手が楽曲に愛を感じるには、作曲の経緯や歌詞の言葉との連合が必要になります。」
☆愛を感じる楽曲の例
「言葉の影響をなるべく除外するために、外国語の曲を例にしましょう。ジョージ・ハリスンの《フォー・ユー・ブルー》と、エリック・クラプトンの《いとしのレイラ》は、同じ女性に対する愛を表した曲です。その女性パティ・ボイドは、一九六六年にハリスンと結婚しましたが、一九七四年に離婚し、そして一九七七年にクラプトンと結婚しています(一九八九年に離婚しています)。
ハリスンは《フォー・ユー・ブルー》を作曲したのが一九六八年で、クラプトンが《いとしのレイラ》を作曲したのは一九七〇年です。どちらの曲もボイドとハリスンの婚姻中に発表されています。そうすると、ハリスンの《フォー・ユー・ブルー》は妻への愛を表したものであるのに対し、クラプトンの《いとしのレイラ》は他人の妻への愛を表したものということになります。
こうした事情を踏まえて二つの楽曲を聴き比べてみてくだし。歌詞の意味を無視しても、前者は落ち着きのある愛を表しているように、後者は激しい愛を表しているように聴こえるのではないでしょうか。」
「ハリスンとクラプトンの事情を知らない人も、《フォー・ユー・ブルー》に優しさを、《いとしのレイラ》に怒りを聴き取ることはできるでしょう。しかし、愛の優しさや報われない愛の怒りを聴き取ることはできません。それを聴き取るためには、作曲の事情に関する背景情報と楽曲が連合している必要があるわけです。」
※ラブソングの歌詞
「「なんとか覚え歌」というのがたくさんあるように、歌は知識を伝達するための非常に便利な道具です。言葉を音楽に乗せることで、音楽が言葉を思い出す手がかりになったり、単調な内容でも飽きずに反復して聴くことができたりするようになります。こうした歌の利点があることで、ラブソングは愛の概念を広めるための教材として機能します。吟遊詩人によって宮廷風恋愛が広められたように、それぞれの時代や文化の愛の概念はラブソングによって広められると考えられます。
歌詞のもう一つの特徴として「聴き手の気持ちの代弁」があります。歌詞は、聴き手自身では言語化できなかった心の状態に言葉を与え、混乱を解消してくれます。この特徴はラブソングにも当てはまるでしょう。恋に落ちると人は普通ではいられなくなり、混乱状態に陥ってしまいます。ですが、ラブソングの歌詞がその心の状態にぴったり会う言葉を与えてくれることで、混乱が解消されたり、自分が恋に落ちているという自覚が得られたりするのです。」
※失恋ソングの癒しの効果
「失恋ソングを聴くと自分の失恋が思い出され再び悲しくなりますが、それを上回るだけの癒やしの効果があると考えられます。その効果は、先ほど挙げた混乱の解消もありますし、悲しみの身体状態が与えるリラックス効果もあります。
こうした癒やしの効果に加え、本書では「記憶の改変」に注目した考えを提示しました。失恋ソングを聴いて歌詞を私物化すると、自分の失恋が思い出されて悲しくなりますが、その歌詞は記憶を変化させ、交際期間を良い思いでに美化してしまいます。あるいは、恨みの失恋ソングの場合、その歌詞を私物化すると過去の記憶が悪いものに書き換わり、相手への執着が薄れたり、怒りの活力が得られたりします。」
「一見ラブソングは、「愛」という一つのテーマしかない、内容が限定されているものに思われます。しかし、愛には多様な現れ方があるため、ラブソングを描くことで多様な人間のあり方を表現することができるのです。」
◎ジョージ・ ハリスン《フォー・ユー・ブルー(For You Blue)》
◎エリック・クラプトン《いとしのレイラ(Layla)》