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「人の話を「きく」ためのプレイブック/哲学者・永井玲衣とともに」  (WORKSIGHT[ワークサイト]19号: フィールドノート 声をきく・書きとめる)

☆mediopos-3133  2023.6.16

コクヨのオウンドメディア「WORKSIGHT[ワークサイト]」の
19号は「フィールドノート 声をきく・書きとめる」

そのなかに永井玲衣と編集部3名との
「きく・きかれる」ことについての対話と
永井玲衣の「きく」ためのヒントが掲載されている

永井玲衣の哲学エッセイには共感することが多いのだが
ここではあえて今回のテーマに対する
若干の違和感をメモしておくことにする

「きく・きかれる」のは
「わからないこと」があるからだが
そのための「場」をもつことはむずかしいのではないか

ここで書かれている5つの「ヒント」は
その「場」が講義のような場でも
ディベート(議論)のような場でもないところでの
「わからなさ」や「問い」を共有できる
「みんなでこの場をつくっている」ような
そんな場においての「きく・きかれる」のそれである

「お互いのわからなさが前提となる」ということだが
そんな場を持つことが可能だろうか

その前提のもとに対話をおこなう
ワークショップ的な場をもつことは可能だろうが
その場でもそこにはコーディネイターが不可欠になる

編集者との対話のなかで永井玲衣は
「わたしが実践している哲学対話は(・・・)
進め方は人によって違うのですが、
わたしの場合、対話のはじめに〝世界観の共有〟の
時間をつくっているんです。」と語っている

「お互いのわからなさが前提となる」という
〝世界観の共有〟の時間をつくらなければならないとき
その前提そのものが誘導されてはいないだろうか

しかもわざわざ「わからない」を持ち寄ろうとする
そんな人がはたしているのだろうかとさえ思うのだが
おそらく「哲学対話」的な前提としては
そうした条件をクリアしなければ成立はしないのだろう

たしかに「同じ問いを眺めながら、
相手のことばと、そこから生まれる自分のことばに、
耳をすましてみる」
そうした時間と場をもつことはとても重要だが

「わからない」ひとはおそらく
ばくぜんとした「問い」に対する
「答え」を教えてもらいたがっていることが多く
無意識のうちで強く欲しているものがあり
それに対して齟齬が生まれそうなとき
じぶんを変えるような方向性が生まれるだろうかとも思う

「わからない」ことにたいしては
じぶんなりに長い時間をかけて
みずからへの問いを熟成させる必要があるだろうから
「わからない」ひとどうしが急ぎ集まって
「きく・きかれる」ための理想的な場を
生成させることはおそらく難しいのではないか

たとえばアルコールに依存している人たちが
匿名性を前提として自由意志で参加し
互いのーティングで経験と力と希望を分かち合い
アルコホリズムから回復するための
アルコホーリクス・アノニマス(AA)という団体があり
そうしたミーティングの「場」にはある種の
高次の働きかけが生まれるという話がある

この「きく・きかれる」は
匿名性を原則とはしていないだろうが
そのAAと似た場のイメージもある

AAには12の原則・ステップがあり
それに沿ったミーティングが行われるというが
「きく・きかれる」にも
それなりの原則が「世界観」として共有される必要がある
つまり強いコーディネイトが必要とされる

AAではアルコホリズムからの回復が目的であり
「きく・きかれる」場では
そこで「問い」がひらかれることが目的だろうが

それが可能だとして
「自分も相手もまた、ふっと変わっていく瞬間」
というのはある種の無意識の場においてだろう

そしてそこには場の共有を可能にする
感情・感覚の共振を誘発させるなにかも必要となる
鍵となるのはその感情・感覚の部分なのかもしれない

■「人の話を「きく」ためのプレイブック/哲学者・永井玲衣とともに」
 (WORKSIGHT[ワークサイト]19号: フィールドノート 声をきく・書きとめる 
   学芸出版社 2023/4/29)

「そもそも、人の話を「きく」とはどういうことだろう。毎日誰かと触れあい、そのことばを耳にしながらも、なかなか「きく」ことはうまくいかない。「哲学対話」を実践する永井玲衣に「きく」ためのヒントを挙げてもらいつつ、「きく・きかれる」ことについて、編集部3名も加わって話し合った。」

「1 そもそもこの場は「きく・きかれる」ができる場だろうか?と問う

 いきなり人に話をきこうとする前に、まず自分たちがいる場が「きく・きかれる」ことができる場なのか、じっくり問い直すことから始めてみませんか。「きく」は独立した行為ではなく、「きかれる」ことと密接に関係しています。さらには単なる行為でさえなく、こうした問い直しの態度も含んでいるものです。
 なぜ、場を問い直すのか。それは、そもそもなぜわたしたちには「きく・きかれる」が必要なのか考えることと、密接につながっています。果たして、いまの社会は「きく・きかれる」ことができる場所でしょうか。「大丈夫じゃない場所」で溢れていて、誰しも傷ついた経験があるのでは。」

「2 わからなさの共有

 (・・・)
 そもそもわたしたちは、わからないからこそ「きく・きかれる」をしているのです。「わかったふり」のかわりに、「わからない」と言える場所にしてみるのも面白い。わからないまま、ままならないな、と感じながら、まずはそのなかに滞在してみる。そうすることで、自分のなかから浮かんでくることばたちにも気がつけるかもしれません。」

「3 「人それぞれ」にしない

 (・・・)
 「人それぞれ」はあくまでスタートラインなのです。「人それぞれ」をゴールにして他者との交わりを諦めてしまうか、あるいは相手を無理やり変えてしまうか、といったような二元論に陥るのではなく、その間を探求してみましょう。「きく・きかれる」の往復のなかで、自分も相手も変わりうるからこそ、自分と相手とはどこが同じで、どこが違うのか、問いを重ねていく。そんな時間にできればいいですね。」

「4 問いをひらく

 (・・・)
 「きく・きかれる」をリラックスして、みんなの共同の営みとして続けていくために、「問い」を媒介にしてつながりを見いだしていったらどうだろう、ということなのです。ですから、世間一般に「問い」と呼ばれるものでなくてもいい。お互いの媒介物を見つけましょう、とも言い換えられます。「いま、同じことについて話しているよね」という感覚だともいえます。
 それでも、媒介物を「問い」と呼んでみるとよいことがあって、それはお互いのわからなさが前提となることです。
 (・・・)
 参加者一人ひとりが「みんなでこの場をつくっている」という共通認識をもてればいいですよね。媒介物としての「問い」は、みんなにひらかれているものなのです。」

「5 もろさを大切にする

 もろさを大切にするというのは、自分の前提が壊れてしまったり、あるいは自分が変わっていったりする可能性を想定しておく、という構えのことです。自分が変わってしまわないよう構えるのではなく、むしろ変わりうることをあらかじめ受け入れておく、と言ってもいいかもしれません。
「きく」側も、「きかれる」側も、互いにもろい存在です。「わからない」からこそ「問い」をひらいて場を共有するのと同じように、わたしたちは明確な主張をもって集まるのではありません。手ぶらで集まり、同じ問いを眺めながら、相手のことばと、そこから生まれる自分のことばに、耳をすましてみるわけです。
 ですから、確固たる自我をもつ個人同士がディベートするような議論モデルとは、当然異なってきます。「きく・きかれる」場が刻々と変容するなかで、自分も相手もまた、ふっと変わっていく瞬間がある。その「もろさ」を大事にしてみたいのです。」

◎「WORKSIGHT[ワークサイト]」magazine


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