石井 研士『魔法少女はなぜ変身するのか/ポップカルチャーのなかの宗教』
☆mediopos2787 2022.7.5
現代日本のマンガやアニメには
「魔法」「魔法少女」「巫女」
そして「異界」「他界」「転生」などをめぐり
それらの虚構的な物語のなかで
宗教的な表象がさまざまに使われながら
作られているものが多くみられる
作品には直接的間接的にニューエイジ的なものの影響を
受けているというのはあるだろうが
宗教的な表象によって読者が宗教化されるわけではない
「制作者は、多くの場合、宗教者や宗教団体ではなく、
マンガ家、アニメーター、制作委員会」であり
「読者アンケートの順位が低くなるとか、
視聴率が低迷すれば連載や放映は打ち切られる」ように
それらは読者に消費される世界である
もちろんマンガ家やアニメーターが
さまざまな宗教やニューエイジ的なものなどの影響から
作品を制作しているということはできるだろうが
それらが多く受容・消費されているということは
そうした宗教的表象が
好んで受容・消費されているということに他ならない
つまりはある種の社会現象となるような源や傾向性が
そこには存在しているということだ
そしてその世界は実世界とは異なる
虚構の世界であるとしても
そして物語のテーマが
「努力」「根性」「友情」「恋愛」「成長」
といったものであるとしても
それらのテーマが展開されるにあたって
宗教的表象が受け入れられているということは
かつての宗教的な受容とは異なった仕方で
それらの影響を受けずにいることはおそらくできない
現代では地域社会や学校教育や家庭における実生活でも
宗教性が希薄化しているのに対して
高度情報消費社会におけるメディアとしての
アニメやマンガのなかで
さまざまな宗教的表象が
多種多様なかたちで受容されている
しかもヒット作品はコミックでも
数百万部数千万部も刷られたりするように
それらの影響を過小評価するわけにはいかない
そしてそこには日本人に特有な
アニミズム的なものや八百万の神への親和性が
多く影響していたりもするはずだ
「ポップカルチャーのなかの宗教」は
決してふつういわれるような「宗教」ではないものの
ある種のあらたな形での宗教的な知識や感受性が
大衆的なかたちで準備されているということもできそうだ
それらの影響を受けたその後が
いったいどうなっていくのかはわからないけれど…
■石井 研士
『魔法少女はなぜ変身するのか/ポップカルチャーのなかの宗教』
(春秋社 2022/6)
「宗教研究者、とくに現代社会における宗教を考察する研究者の間では、アニメやマンガ、あるいはゲームに、「宗教」が頻繁に登場することはよく知られている。日頃接する学生さんがひじょうに狭い宗教領域(大抵はトリビア)について詳しかったりすることもそう珍しいことではない。彼らは実生活では無縁な「イタコ」や「陰陽師」についてどこで知ったのだろうか。「生まれ変わり」「死後の世界」への関心はいったいどこで醸成されたのだろうか。家庭か、地域共同体か、学校での教育か。思い当たるのは「メディア」である。
アニメやマンガを素材にして、宗教的なテーマを論じることは十分に可能である。密教を主たる研究領域とする正木晃は、大学で宗教画を説明するのに身近なアニメ作品の利用が効果的として「風の谷にナウシカ」を用いている。予言、シャーマン、トリックスター、キリスト教の色彩学、貴種流離譚、陰陽五行などかなりの項目数である。それだけ「風の谷のナウシカ」には宗教的要素が詰まっていることになる。
他にも神話学者の平藤喜久子のように、現代のグローバル社会においてどのような神話は利用されているかを論じたり、古代メソポタミアを専門領域とする渡辺和子のように、宮崎駿が原作・脚本・監督した「崖の上のポニョ」を洪水神話から読み解こうとした事例もある。研究領域が現代社会と宗教ではなくても、自らの領域の知見に立ってポップカルチャーに見出される宗教性を分析することはそう珍しいことではない。かくいう筆者も、「攻殻機動隊」を使って高度技術社会における現代人の魂を論じたことがある。
AIはロボット工学の中核的な最先端技術である。ロボットと宗教との関わりを考える上で想起されることに「機械の中の幽霊」がある。この言葉はイギリスの哲学者ギルバート・ライルがデカルトの心身二元論を批判するために用いた表現である。前者には直観、自由、分割不能、破壊不能そして自由意志という特権的な立場を与え、自己としての同一性の根拠も心にあるものと優越性を設定する。しかしながらライルは、我々は心と身体の両方をもつ存在としてあるのであって、私という存在は、私の身体と関連づけられてはじめて意味を持つと主張する。デカルトの主張は「機械の中に幽霊がいるという教義」(the dogma of the Ghost in the Maschine)であると批判し、人が肉体という機械の中に精神というゴーストをもっているかのように考えるのは誤りであると述べている。
「機械の中の幽霊」という表現は、その後アーサー・ケストラーがそのまま書名としたことで知られるようになった。ケストラーもライルの考え方を受け継いで、ホロンという全体概念を提唱している。
ところで、、「機械の中の幽霊」は、現代日本のポップパルチャーにおいては、志郞正宗原作のマンガ・アニメ作品「攻殻機動隊」の元ネタとして知られている。「攻殻機動隊」の英語タイトルはGhgost in the Shell である。作品は、ライルの the dogma of the Ghost in the Maschine をもじったものではあったが、内容はまったく異なったものだった。ライルやケストラーが心身二元論を否定し、人の総体的な存在様式を理解しようとしたのに対して、「攻殻機動隊」では、義体化しサイボーグ化していく肉体と、純粋化する自分(自意識や魂)はみごとに分離して描かれている。「攻殻機動隊」に登場するネットワークのゴーストは、明らかにデカルト的でオカルト的な心の概念を隠喩するテーマである。
現代日本社会におけるアニミズムの残存もしくは維持は、いろいろな機会に指摘される。
アメリカの人類学者ジェニファー・ロバートソンは、最先端ロボットのなかに神道の伝統が生きていると述べている。「日本のロボット開発が評価される理由は、その文化的・宗教的な歴史にある」のであり、神道では石や木などあらゆるモノに生命を吹き込むから「ロボットは生あるものとみなされ、日本の開発者はロボットに感情や良心をもたせられると信じている」。ロバートソンの神道理解が正しいかどうかは別として、日本人がロボットを単なる機械と見なしていないことは、他の多くの事例からも理解できる。(…)
こうした状況を「テクノ・アニミズム」という語を用いて説明しようとする研究者が複数存在する。奥野卓司は早くからテクノ・アニミズムという語を用いた研究者である。アメリカの社会学者アン・アリスンも、『菊とポケモン』において、いつでも携帯できる小さな機械「ゲームボーイ」「DS」を単なる道具とはせず、他者とのコミュニケーションツールとし、学習による自己向上に役立てようとする日本人を評して「テクノ=アニミズム」とよんでいる。
(…)人型ロボットとして「鉄腕アトム」が生み出されたり。初音ミクがネットの世界へ拡散していったんのも日本ならではのことのように思える。奥野やアリスンの指摘は、現代日本におけるアニミズムの存在を、再び指摘して見せはしたが、我々を取り巻く社会や日常生活がこれだけ変化したにもかかわらず、なぜそうした現象が維持されるのか、その理由が明確になるわけではない。なぜメディアの中に、多様な宗教性が見え隠れするのだろうか。
しかしながら、子どもの頃から見てきたアニメやマンガ、数多くのゲームソフトに「宗教」を意識したことがあるだろうか。(…)宗教学者が指摘するように、多くの宗教的要素が詰め込まれているとしても、そうした宗教性への関心が日常生活において高まるとか、身につくといったことは考えにくい。アニメやマンガを媒介にして何か超越的なつながりを感じるなどということがあるのだろうか。巫女や魔法使い、陰陽師はたんなるキャラクターであって、本格的な宗教的世界へ誘う存在ではない。宗教的と思われるテーマも、「努力」「根性」「友情」「恋愛」「成長」の前ではかすんでしまう。アニメやマンガを多く視聴する者が宗教的要素故に内省的な深まりを経験しているとか、精神的な困難の克服に役立てているというわけではないだろう。制作者は、多くの場合、宗教者や宗教団体ではなく、マンガ家、アニメーター、制作委員会である。読者アンケートの順位が低くなるとか、視聴率が低迷すれば連載や放映は打ち切られる。」
「本書の目的は、アニメやマンガといったポップカルチャーに宗教がどのように表象されているのかを考察することで、現代社会における宗教の意味の変容を理解することである。
(…)
実生活での宗教性の希薄化とは対照的に、ポップカルチャーにおける宗教性の表出は実に多種多様である。日常生活において、地域社会や村の古老から、学校教育で、そして家庭において伝統的な宗教性が継承されず、ましてや宗教団体に帰属することのない若者が、宗教に関する知識を有していることは確かである。明らかにその基盤は高度情報消費社会である。こうしたことを考えると、メディア、とくに若者の間で広く共有され、視聴されているアニメやマンガといったポップカルチャーにどのような宗教的テーマやキャラクターが見られるか、影響力の有無を考察することは、現代日本の宗教状況を理解するために不可欠な研究であるように思えてくる。」
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