見出し画像

中国元陽県調査レポート~山岳地帯・少数民族の伝統といま

中国雲南省にある
少数民族が暮らす山岳地帯での
予備的なフィールドワーク
に関する備忘録です。


2024年8月に、
中国雲南省にある元陽県の棚田
(紅河ハニ族イ族自治州)
を現地視察しました。

この一帯は、
世界(文化)遺産と
GIAHS(世界農業遺産)※の両方に
認定されています。

壮大な棚田が広がる

Globally Important Agricultural Heritage Systems(世界農業遺産)は、FAO(国連食糧農業機関)が認定する伝統的かつ独自性の高い農業体系を有する地域。緑の革命における反省(副作用)から、失われるべきではないと認められる重要な農業と付随する食文化や技術、生物多様性、景観等を保全しようという動きの1つ。世界20か国以上で80以上が登録されている。

FAO

初の中国調査、
そしていきなり国境付近の
ディープなエリアへ――
不安と期待の入り混じる
珍道中の始まりです。

出発前:ビザの申請が毎回必要

コロナ後から、
中国へは短期単発でも
ビザ(査証)無しでは
行けなくなりました。

出国前にセンターに行って、
申請手続きをする必要があります。

申請は
センターに2回行く必要があり、
東京や大阪、名古屋にしかないので、
地方在住者はそれだけでハードルが上がります。

1日目:関空~昆明

今回は関空から。

関空(KIX)での搭乗手続き

すっかりお馴染みとなったメンバーで。

日中比較研究が始まって以来、
中国では初の全員集合です。

今回は、
便をあわせてフライト。
上海経由で向かいます。

上海空港は大きくて豪華

中国東方航空。
機内食はあまり期待しない方が
良いかもしれません。

麺(ヌードル)かごはんかを選べる

昆明空港(KMG)に到着。

雲南省の玄関口、ということで
地方の空港、
日本でいう釧路空港くらいを想像していたのですが、
全く想定外。
思っていたよりずっと立派で
大きな空港です。
関空よりデカイかも。

宿までタクシーで1時間程度。
1泊目は、
今回現地でお世話になる
「昆明理工大学」の
キャンパス内にあります。

大学内にあるホテル
中もキレイです

部屋も一人で泊まるには
十分すぎる広さ。

キレイな部屋。アメニティも充実しています

昆明市街地は、
新しく開発された(ている)街という感じで、
外は高いビルが次々建てられています。

いまもどこかが工事中、
という感じで、
5年後10年後には
またすっかりようすが
変わっているかもしれません。

大きなビルが建つ

土台というか、
基礎のところが古い感じなのですが、
そのまま上に新しい躯体が建っていて、
下の部分は駐車場なのか、
アンバランスな建物です。

下層が昔のまま、という雰囲気

昆明は、
思っていたよりずっと涼しく、
長袖の羽織があった方が良い気候。
標高も1,800mと高く、
年中すごしやすいそうです。



少し歩くと
良い感じの路地が。

路面に店が並ぶ

大きな道を一本隔てて、
こういう景色とビル群があり、
飲まれていくような印象もあります。

美味しそうなお店を発見!

どれでも取り放題のおかず

米とここのおかずが食べ放題で13元
(300円いかないくらい)
という破格の安さ。
労働者が集う店という感じで、
工事現場の人たちが
飯をかっこんでいます。

ビールまでいただいて

めちゃくちゃ美味かった!!

麺は別で8元

中国は飯もうまくて安くて最高!!
というのが一日目の感想。

凧揚げ 一本入れば途端に場末じみます

ここ数年で
一気に都市化が進んでいる印象があり、
不調和な混ざり具合は
都市系の
研究フィールドとしても面白そうです。

レンタルの自転車やバイクもある

まさに工事が進んでいます。

開発、開発、開発

2日目:昆明~紅河

午後から現地入り。
昆明から南下すること約6時間、
今回の調査地「紅河ハニ族イ族自治州」に到着です。

思っていたより道もよく、
道幅も十分広いです。
(徳島・にし阿波の方が
行き交えないくらい狭いし、
イタリア・ウンブリア州の方が
路面がボコボコ)

今回の主な滞在先です。

雲南省は中国の南部に位置します

中国大陸の南部、

昆明→紅河に南下

紅河州南部は
国境沿いのエリアで、
ラオスとベトナムの国境がすぐ。

孫潔(2012)より引用・転載

今回は、
観光開発の進む村を中心に
回っていきます。

途中で立ち寄った公衆便所 なかなか渋い

1つ目の村に到着。
大魚塘(ダイギョトウ)村。

お昼時で早速食事に。

古い家屋を改装したレストラン

店内には
欧米人の観光客も多かったです。

「食材を見に行きますか?」と程(テイ)先生。

冷蔵庫の食材を見ながらメニューを注文するスタイル

程先生は
今回僕らの旅をアレンジしてくれた
昆明理工大の先生で、
建築がご専門です。

肉や魚も
ドン
ドドン(ピリ辛でご飯すすむやつ)
ドドドン(タケノコのおいしいやつ)
ドドドドン!

ということで、
料理が登場。
どれもとてもおいしいんですが、
小食な僕らは食べきれません。

最後はドライバーさんが
ガッツリ食べきってくれました。
心強い!

お店の概観
下ごしらえ 丁寧な仕事です
キノコとかが干してある
燻製部屋
この手の意匠が外壁に多くみられます

食後は散策。
程先生が案内してくれます。

井戸 奥が程先生
手前が共同研究者の高田さん

高田さんは中国に留学経験があり、
通訳要らずの中国語話者です。
(実は中国人なんじゃないかとひそかに思ってます)

神聖な水
トウモロコシの芯が差してありました

良い腹ごなしになりました。

早めにチェックイン。
この日から3日間滞在する
僕らの定宿です。

お世話になります
リゾート感あります

中国調査は、
農家楽(日本でいう農家民宿)とかに
泊まることになると
思っていたのですが、

快適な室内 アメニティも充実

外国人が泊まれるのは
3星以上のホテルのみで、
農家楽とかには泊まりたくても
泊まれないようです。
(泊まってみたかったなー)

みやげもの屋さんへ。
棚田で作った赤米のお酒などがズラリ。

値段はピンからキリまで
赤米には在来の品種と新品種があるようです
さすがに手土産には重たい
民族衣装が似合うポン氏 したり顔ですね

ここまでほぼ
観光です。

箐口(チンコウ)村へ。

干しトウモロコシ
唐辛子 辛そう
太陽熱温水器を屋根の上にやたらとみかけます 日本の農村と経緯は同じ?
水牛
広場的な場所

ハニ族の伝統的な住居、
といわれているのが
このキノコハウス。

かたちがキノコに似ている

屋根が茅葺で、
1階が牛舎、
2階が住居、
3階が倉庫、
という造り。

廃材やゴミがわりと散乱しています

この村は
中心部から近いこともあり、
早くに(2000年ごろ~)
観光開発が始まったようですが、
少し寂れた印象です。

観光地にも流行り廃りがあり、
一時の箱根のような感じでしょうか。
盛り返しの機会があれば良いのですが。

ちょっと歩いてみましょうか?
ということで、
棚田ハイク。

棚田を分け入り歩いていきます

景観はさすがに圧巻。

写真では伝わりきらないですがスケールがでかいです

眼前に広がる棚田の面積は
元陽県に限っても1.27 万ha、
全部で7万ha

日本のGIAHS事例、
石川県・能登の千枚田が約4haですから、
まさにケタが違います。
(この度の震災に際し、心よりお見舞い申し上げます)



側溝には、
水配分するための
石が。

石を置いて水の流量を調整している
ここにも

下流域の面積に応じて、
配分するしくみです。

中腹にて
作業をしている人もみかけました

標高も高く、
結構な移動量で、
ちょっとした高地トレーニングです。

へばっているところ

ん?

なにやら怪しい感じが。

ここにも

近くでみると
偽物のわら素材でした。
管理が大変で代替されたのでしょう。
遠目には分かりませんが、
なんとも・・・


場所を移して、
全福荘(ゼンプクショウ)村へ。

車と水牛

ここは、
村の外の人が経営する
ホテルやレストランがあります。

赤米酒の仕込み
見せることを意識したディスプレイです

酒蔵、レストラン、染め体験など、
施設をいろいろと
案内してもらいます。

藍染が体験できる施設
藍染め
いい感じのお食事処

そのまま夕食に。

紅米酒 43度とか

案内いただいた女性オーナーが
しこたま強い方で、
最近、日本では
めっきり見なくなった
飲めや飲めやの宴会。
みんなだいぶ飲まされました。

3日目:博物館~阿者科(アジャカ)村

午前中は
ハニ棚田文化博物館へ。

エントランス

棚田を臨む素晴らしい立地に、
豪華な建物です。

祭り(儀式)のときの食事
博物館のディスプレイ
昨夜の料理(実物)

昨夜の食事は
かなりの再現度で
ハニ伝統料理だったことに
改めて気づきます。

午後は、
代々お酒を造っている方に
聞き取りをし、

酒蔵

お昼を食べて、

阿者科村へ。

村の入口にある受付 大学の地域拠点でもある

阿者科村は、
程先生の研究フィールドでもあります。

阿者科村内

この村のキノコハウスの
調査と改修を
手がけたそうです。

この階段がけっこう怖い

2日目に
訪れた村は
道にゴミが多く落ちていたのですが
この村はキレイです。

ゴミ箱が多く設置されている
ここにも
こんな感じで

この村は160年前に
分村してできたそうです。

この村のキノコ屋根はバランスが良い気がします



夕飯は
一軒目が混んでいて、
二軒目がやっておらず
ここに。

暗いというのもありますが…
一見ヤバい雰囲気…

中も
衛生的とはいえませんが、

ビーフン

ごはんはうまかったです!
きたなシュランですね。

昼間に来ても雰囲気あります(別日撮影)

さすがに観光の人は
来ていない感じの店で、
いい経験になりました。

夜の宿舎

この日は宴会もなく、
平和に帰路。

4日目:紅米酒メーカー~棚田景勝地

午前中は
紅米酒メーカーへ。

紅米酒の文字が
建物の裏手

旧小学校跡地を活用した施設で、
いわれてみると
学校のような建物です。

応接室にはお茶のセットが

お茶のセットが
応接スペースにあり、
話をしながら淹れてくれます。
この文化は良いですね。

パシャリ

にわとり
厨房

お昼をいただき、

棚田のビュースポットへ。

たしかにキレイなのですが

なぜか
作付けがされていません。

こちらも

観光客が
よく見にくる場所なので
不思議でした。

理由は分からなかったのですが、
おそらく

かなり崩れている 立ち入り禁止のロープがポップ

土砂崩れで
しばらく水が来ず、

別の水系から持ってきて流しているようにみえる

こんな感じで
急きょ水を
ひいてきて

通行道に送水管が

いまはようやく
水だけ入れれた状態
なのではないかと推測。

下の方は水が入ってない区画もありました

そんな棚田を
眺めていると

チクッ

足に痛みを感じて
ズボンの中を払うと

アリとかかと思いきや

え、なにこいつ?

異国で
見慣れない虫に
噛まれるとまあまあ怖いです。

写真で調べると
ハサミムシ

Googleレンズ すごいですね

毒はないと

普通は挟むことはないと
書いてあるのですが
その後もう1人も挟まれ…
やんちゃ坊主だったようです。

次に
話を聞く場所が
ここ。

中国ならではという感じで
ちょっと緊張しますね

もう1つの
棚田が良く見える場所に。

向かうのですが

なるほどー

ある意味、絶景

晴れていれば
最高の眺め、
ということで

心の目を
凝らして
こんな感じでした。

写真は分かりづらいですが、棚田の気配を感じますね

気を取り直して
近くの売店へ。

このバナナが最高においしい 手前が赤米

今回、
はじめてみたGIAHSの案内。

GIAHS(世界農業遺産)の案内@老虎村

UNESCOの世界(文化)遺産でもある
この地域は
ほとんどが世界遺産という紹介で、
GIAHSとしての紹介をみたのは
これが初めて。
知名度の差でしょうね。



晩飯は
役場の方も交えて
楽しい宴会。

お昼と同じ店 おいしい

ハニ族の方と
兄弟の契りを交わしたり、
さっき覚えた日本語で
「のめ」
といわれたり。
誰だ教えたのは。

5日目:阿者科(アジャカ)村~モピの家

お昼。
昨夜からおなかの調子が悪い
軟弱な私は、

おいしいんですが油がもたれる

あまり食べれなくなってきました。

雲南コーヒー

高いほう

どこかで買えないか
学生さんに聞いていたところ、
持ってきてくれました。

スタンダードなほう

「雲南」コーヒーは
飲んでみたかったので
嬉しいです。

その場でさっそく
淹れてくれました。
とてもおいしかったです。
(心遣いに感激しました)

野草茶

ハニ族が昔から飲んでいる野草茶 高山植物を天日で乾燥させて飲む

このお茶を飲むと、
おなかの調子が少しマシな気がして
結構いただきました。
(おみやげに買い、自宅でも飲んでいます)

乾燥させた状態

薬としても出荷しているようで
高山性のかなり珍しい野草ではないか
と思います。

分かれて聞き取りを数件こなし、
今日の宿へ。

カゴで重たいボンベを運ぶ

眼下に棚田の広がる
最高のロケーションに建つ
宿です。

Azheke Hotel

荷物はスタッフが運ぶから
置いておいて!
と言われるのですが、

かごやなわを使ってひょいと

運ぶ姿をみると、
なんだか申し訳なくなります。

ガラス越しに棚田
夕陽を映して

観光業による現金収入、
棚田の維持管理・継承、
出稼ぎと村での仕事。
うーん。

夜は、
モピによる歌を
聴かせてもらいました。

モピ

モピ(Mopi)は
祭祀を取り仕切る村の要人で、
歌に楽器に器用にこなします。

両隣は見習いモピ

ハニ語は、
不思議と日本語と発音が
似ています。
少なくとも中国語より
真似しやすいです。

あと
ハニ族の男性は
やたら水タバコ(シーシャ)
を吸います。

スマホも上手に扱うモピ

歌の最中でも、
そういう演奏なのかと思うほど、
隣でボコボコと
音をさせていました。

6日目:酒造りの国有企業~昆明

いよいよ最終日。

正面

国の赤米酒づくり施設です。

日本でいうとJAが酒づくり事業も始めた、みたいな感じでしょうか
赤米が干してあります
急にハイテクな感じ
モニタリングできる
やはり高級ラインから廉価版まで

約5,000戸の農家と提携しており、
契約農家には
有機肥料を
提供しているそうです。


帰り道すがら、
市場に立ち寄ります。

野菜や果物が並ぶ

マンゴーが
とっても美味しそうだった
のですが、
帰りの車内で
下したら大変なので
諦めました。

昆明までは
休憩なしで約6時間。
宿に着くと、
なんだかんだで
夜の1時ごろ。

少ししかいないのに、やたら良い部屋でした
果物まで置いてあって

早朝の便で不安なため、
みんなで起こし合うことに。
無事、起きれました。

昆明空港

バイバイ中国
雲南
また行きたい!

今回は
特に大きなトラブルなく、
すごせました。
(強いて言えば、私の腹痛くらい)

トイレにいて大事な集合写真に写り損ねました

ということで、
旅の記録はここまで。

以下、
雑感が続きますので、
関心ある方は引き続き。

ここまでお目通しでいただき、
ありがとうございました。
谢谢你了!

旅のメンバー

雑感:

① 誰が/なぜ棚田を作ったのか

これだけ広大かつ精緻な棚田を、誰が/なぜ作ったのだろうか、と棚田ができたとされる1,300年前に思いを馳せてみます。
作ったのはハニ族といわれていますが、自分たちでこれほどの構造物を作ろうと思うだろうか? というのが素朴な疑問です。

霧が晴れていたら見えたかもしれない老虎の棚田
(写真は棚田学会より)

8世紀ごろから営々とつくり広げてきた、と説明されるハニ棚田の歴史ですが、「反穀物の人類史」などを読んでいると、貯蔵と保存のできる穀物は、徴税のために作られるようになった、という大胆な仮説が提唱されており、あてはめると棚田は、(おそらく中央国家とは別の)支配者層が作らせていたと想像できます。

反穀物の人類史:国家誕生のディープヒストリー(ジェームズ・スコット)

そんな視点からいくつか文献を調べていると、興味深い記述もあり、

「雲南民族生態誌」(古川、1997)

この記述から、ハニ族はイ族の奴隷だったのではないか、と考えられます。
あまり表には出てこない歴史ですが、標高による棲み分けや、国家から逃れるように高山部に住みつきだしたのは遊牧騎馬民族であっただろうことなどを考えると、ハニ族は農奴として棚田を作らされていたという説明で合点がいきます。

すると、棚田を作ったのはハニ族であったとして、そのハニ族や末裔は棚田を残したい、と思うのだろうか、というのが続く疑問です。
先祖が作ったものであることはたしかだとして、そしていま遺産的な価値を対外的にも得て、国家的にも世界的にも後世に残したいと、残すべきだと認められたわけですが、誰が残すための努力をするのか、という問いです。

以上の経緯を考えれば、残したい人と、残すために汗を流す人がなかなか重ならないようにも思えるわけです。もちろん、先祖から引き継がれた自分の家の土地(農地)という財産として手放したくないという思いはあるのでしょうが、景観的に美しい状態で、あるいは循環型の農業として継承したいという動機は生じるのでしょうか。これは日本の棚田にも当てはまることですが、悩ましい問題です。

② 零細分散錯圃

棚田の耕作者に話を聞くと、共通して離れた場所に3~4枚ほど、近い圃場で10~15分、遠い圃場だと徒歩で1時間くらいかかるような場所に少しずつ、分散して農地を持っていることが分かります。

理由を聞くと、村所有から個人所有になったタイミングで、公平性の観点から遠いところと近いところを平等に分配した、いまはその時の先祖の土地を引き継いでいるだけだ、と説明されます。

日本でも、災害等のリスク分散を図るために分散錯圃制は歴史的に形成されてきた、と説明されたりしますが、これってかなり怪しいと思っています。

江戸時代から、災害を受けた河川の氾濫や土砂崩れなどの自然災害と向き合いながら農業を営む知恵として、1農家のほ場を1ヵ所にまとめず分散させることで災害時での全滅を避けてきた、などと説明されたりしますが、リスク回避という点でいえば保険制度のようなお互い様の扶け合いのしくみでも対応できるはずで、たとえ遠くても1か所にまとまっている方が耕作者の誰にとっても作業しやすいはずです。

さらに遡って農奴として耕していた時代にはそんなやり方ではなかったはずで、農地を個人所有とする農地解放の際に、小作農民が力をつけすぎないように、わざと非効率な耕作を強いた、というのが私の見解です。

アナーキーに偏った意見に思えるかもしれませんが、公的な記録には政府にとって都合の悪いことは残らないというのは世界共通なので、日本においても中国においても平等性・公平性という建前のもと、小作による土地の権利を慎重に認めていったのではないかと思います。

翻って現在、棚田を残したい政府と土地の権利は手放したくないが耕作はしたくない農民のあいだに、非効率な土地の分配だけが横たわっているように感じます。もはや誰にとっても得がありません。

農民を弱らせておく必要もなくなった以上、換地をして、少しでも作業負担を減らすべきだと思います。
いわば、分散錯圃という慣習は、伝統性に寄与しない反復であると整理できそうです。

③ 観光開発と棚田の維持

自給的な生活から現金収入の必要な生活に切り替わってすでにかなりの年数が経つ中で、いまのおじいさん世代(1930年代生まれあたり)より1つ上の世代でも、すでに若い頃は出稼ぎに出ていたことが分かりました。

働き盛りには、家族で、あるいは子どもを祖父母に預けて夫婦のみで(現金収入を得に)働きに出るという生活が慣習化していく中で、観光開発が進むと、自分の村や近隣の村に出稼ぎに行く、という発想で、観光関連の仕事に就く人が出てきます。それでも家族で、というよりは、夫は引き続き単身で出稼ぎに、妻(と子どもたち)は帰村して、ベッドメイクや給仕など、ホテルのスタッフとして働くようになります。
地域での雇用創出という点で観光開発はたしかに貢献していて、できれば村を離れず暮らしたい(子どもの世話を親世代と分担しながら子どもと離れずに暮らしたい)というニーズにも合致します。

一方で、臭いや衛生面の観点から、観光地化にあたり牛糞堆肥の利用を控える方針を政府が出したこともあり、化学肥料の使用が一般化するという変化も生んでいます。

沖肥法※のような省力的で循環的な農法とされる伝統的(で現代において評価されるよう)な施肥技術は減少の一途で、堆肥の使用が化学肥料に代わり、一家に一頭飼育していた水牛を手放し、耕耘用にのみ借りる(レンタルする)ようになってきていて(現時点)、やがて・・・といった具合に変化しつつあります。

このあたりの段階的な変化は、日本の牛飼い地域(但馬牛産地など)での経験とも類似しており、中国におけるキノコハウスの消失は、1960年代以降、農耕牛を手放す農家が増え、厩(まや)も徐々に姿を消した歴史と重なります。

現代的な文脈で再評価される循環的な農法が、いままさに近代農法(化学肥料)に置き換わっていく中で、伝統的な技術をいかに現代的な要求にあわせながら革新していくかが問われているように感じます。

観光収入を棚田の維持管理に回るようなしくみづくりを、ということが言われていたりしますが、それは雇用創出というかたちで間接的に達成されているようにも思えますし、それだけで棚田が継承できるとも思えません。

たとえば、GIAHSの申請書には、水管理を担う役割として「溝リーダー(溝番)」という存在があり、こうした役割の意義が強調されています。
歴史的には、水管理をする人に対して村の人(生産者)たちがお米で対価を払うしくみ(溝米)があったようですが、いまはそうではなく、政府から溝リーダーにお金が支給されています。

ところが詳しく話を聞いていくと、溝リーダーの人数は当時よりも増えていて、かなり最近になって登用されている人が多く、また貧困対策という側面もあることが分かりました。

政策としては、第一義に貧困対策があり、さらに水管理という重要な役割を担わせることで棚田保全を制度的に支える上手な組み合わせ(政策的妙手)といえそうですが、棚田の一部は水不足によりトウモロコシ畑に転用されているところもあり、水不足の原因は水管理の悪さにあるのではないか、という説明もありました。
(このあたり根拠の提示は難しいですが、長い歴史の中でこれまでも水不足は発生していて、上流の水を調整して下流域に流したり、植え方や品種を工夫したりして米を作り続けてきたことを考えると、気候変動の影響というよりもむしろ、水管理が困難になっていることに起因する恒常的な水不足と考える方が妥当です)

昔ながらの溝番は実はかなり前に途絶えていて、それに伴い管理技術も継承されずに消失している可能性が高く、最近の溝リーダー「制度」はまさに「創られた伝統(Invention of Tradition)」の1つといえそうです。

「創られた伝統」(エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャー)

つまり、観光収入を棚田の維持管理に回しても、実態を伴うかたちで維持管理を遂行するのは難しいのではないか、というのが主張です。

※山の斜面の「森―村―棚田」の配置を生かし、家々からでる家畜糞尿などを液肥とし、灌漑システムを通して水田にいきわたらせる独特の流し込み施肥法(中村・森下、2012)。

④ 変わるもの/変わらないもの

「慣習」は不変ではありえない。なぜなら、「伝統」社会においてすら、生活は変化するものだから

「創られた伝統」(エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャー)より引用

慣習がまったく変わらないということはあり得ないとして、急進的な変化と、緩慢な変化があるように思います(注)。

たとえば観光開発による仕事(現金収入の得方)の変化はここ数年で急激に、付随して施肥法や水牛飼養もいささか急に、一方で早くに結婚して子どもを産み育てることや、収穫後の田んぼにそのまま水を張っておき魚を育てることなどは、変わっていない(変化の緩やかな)慣習と整理できそうです。

以上を、慣習はマクロ的な社会経済システムの変化の影響を受けますが、金銭経済と生産消費経済※で、その影響の大きさは変わると説明できそうです。

田んぼで育てた魚はほぼ自給用に食されるようです。また、祖父母に預けながら子どもの世話をするというやり方は、きわめて(経済)合理的です。

生産消費活動において、慣習の変化が緩やかといえる点は、伝統的な農業システムの変容を読み解く上で1つのヒントになりそうです。

注:この区分は本質的なものというよりはむしろ便宜上のもので、2つの主要な形態に注意をひくため(目を向けるため)に設けられた(設定された)ものです。

※生産者でありながら消費者(=プロシューマー)でもあり、そこに通貨の交換が発生しない経済活動のこと。具体的には、友達と食べるケーキを作ることやDIYでの棚づくり、また子育てや病気の親の看病などを指し、多くの経済学者が見落としがちな隠れた経済活動として「生産消費活動」とアルビン・トフラーは呼びました。

いいなと思ったら応援しよう!