芒種 始まるものと実るものと
昨日6月5日から芒種(ぼうしゅ)に入りました。
Wikipediaを見ると
「芒(のぎ 、イネ科植物の果実を包む穎(えい)すなわち稲でいう籾殻にあるとげのような突起)を持った植物の種をまくころ。」
とあります。
芒、というものが私には馴染みのないもので、毎年よくわからないな、といろいろな文献から教えてもらうのですが、今回行きあたったこの記事に頭をはたかれた気分になりました。
「二十四節気「芒種(ぼうしゅ)」。イネ科植物の天下、そのはじまりの季節です
ホシナコウヤ」
二十四節気や七十二候は、天体(太陽)と地球の位置関係を元に、寒暖乾湿などの気象や生物の動き・ふるまいに表れる大きな自然の流れ・働きを叙述したものです。そして、人間の営みはその自然の流れに対応して行われるもの。人間の営み自体が叙述に登場することがあるとしたら、おかしいのです。
「芒種」の正しい意味は、その単純な言葉通り。ノギあるイネ科の植物の種子が成熟して実る頃、という意味です。
二十四節気の叙述は単にその時期の典型的な気象や風物を並べたものではなく、陰陽思想に基づく大きな流れがあり、それぞれが他の節気とも関連性がある、ということです。「芒種」は、春から続いてきた「生育と成長」の季節から、「成熟と成果」の季節に移行したことを示しています。
そっかー!!
これでやっと芒種の意味が腑に落ちました。
芒は稲を現すものなのだと思っていたのに対して、実りのニュアンスもあり、うーん、芒種、よくわかんないな、と毎年放置していました。
確かに稲作は昔はこれから田植えの時期だったようですし、お手伝いさせてもらう友人の田植えは6月だったりしてそれはそれで事実だし、一方で「麦秋」という言葉で表されるのはまさにこの時季で、今は麦の収穫時期でもある。稲は始まり、麦はみのり、ということなのかな、と、私の頭の中で適当にオチをつけていたのでした。
「人間の営みは自然の流れに対応して行われるもの。人間の営み自体が叙述に登場するのはおかしい。」
ガツンときたのはここでした。ここのところをわかっているようでわかってませんでした。
暦とは人間の作ったものだから、人間の営みの目安が書かれているものなんかな、と思っていました。
だから稲作とか麦作とかにオチをつけていたんだ。
そうではなく、人間が生かされている自然、大局観に沿って日々の暮らしを営んでいくことができるツールであるということ。ここでの芒は自然界に自ずと育つイネ科の植物たちを表していると。
この2者では全然立ち位置が変わります。
ガツンでした。
自然は流れていく。
その流れを観て、私はどう動くのか。
自然の流れに沿った上で
暮らしていくのが私の役割。
自然を動かす役割ではない。
それを心得ていた先人たちにあらためて尊敬と憧憬の念がわいてきます。
こうして拙くも二十四節気に合わせて記事を綴っていくことは、現代に生きる私たちこそ価値があるものと思ったからなんですが、知れば知るほど暦が表す自然の壮大さに圧倒されるし、自分の小ささがわかってありがたい。と同時に自分の自然の一員なんだとどこかでホッとしたりします。
現代っ子伸び代ありまくり。
あまり好きではなかったイネ科の雑草たちに目がいくことになりそうです。
*写真もズレてる気がしますが、ご愛嬌ということでこのまま。
芒種から仲夏(ちゅうか)に入り、次の節気は四大ターニングポイントの夏至を迎えます。『春から続いてきた「生育と成長」の季節から、「成熟と成果」の季節に移行していく』陽のエネルギーのピークへ。
梅雨入りも真近ですが、蒸し暑さやジメジメすら味方にして、自分の内側から湧いてくるエネルギーを存分に現していきましょう。
『天が陰を發しなければ萬物が生育せず、
地が陽を發しなければ萬物が成熟しない』