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霜降 実りと寒いの始まり

昨日10月23日より
霜降(そうこう)に入りました。

秋も一段と深まってきましたね。
名古屋の街中でも、カエデの種類ぬが少しずつ色づき始めました。秋晴れが続き雨が降ると、ぐぐっと気温が下がり、途端に毛糸の靴下を引っ張り出し、出したばかりのストーブに火をつけるかもう一息堪えるか悩む、という感じになってきました。なるほど、そろそろ霜が降りだすというのもわかるような気がします。

霜降は晩秋に入り二番目の節気で、秋が熟し切る時季となります。
次の節気は立冬、冬が始まります。季節が変わる直前ということで、10月20日から秋の土用にも入っています。
季節が切り替わりに位置する土用の期間は次の季節に備えて体の調子や身近な環境を整え、自分の内側、中心に意識を向けるとよい時期とされています。
8月7日から始まったこの秋はどんな感じだったでしょうか。
個人的には、今年に入ってからずっと何かと忙しかったのが、少しトーンダウンして嬉しいような、切ないような感覚があったように思います。少しできたスペースのおかげで、ちょうど次のフェーズへ思いを馳せ、準備をしていくことに意識を向けられています。陰気も深まっていくので、自分の深いところと向き合ったりするにはぴったりの空気だなと感じています。

さてさて、
少し前になりますが、稲刈りに参加してきました。
ここ数年、折に触れて友人の田仕事を手伝わせてもらっています。

街っ子で、土と戯れる経験が薄いまま大人になり、「野良仕事」というものをしてみたいと渇望するようになって巡ってきた田仕事のお手伝い。
みんなで作業することの楽しさ、土や稲の匂い、田に分け入ることで出会える虫や動物など、どんなことでも楽しくって本当に有難い機会となっているのですが、中でも米作りの過程を毎年なぞらせてもらえていることは一番の収穫かもしれません。
二十四節気を辿り始めたのとちょうど同じくらいの年月になりますけども、季節の移り変わりが稲の経過を通して肌で感じられるのは、稲作を暮らしの中心としてきた日本人のリズムをわずかなりとも体感できているわけで、日本人として生きることの根っこを強くしてくれているように感じています。

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先日最高の秋晴れのもと、今年も滞りなく収穫することができました。ここから、籾摺、脱穀を友人が施してくれ、年末の収穫祭で新米を頂くのと、刈り取った稲藁で正月の注連縄作りをするのが〆の楽しみです。

米を食べられるようにするまでに八十八回手間をかけることで「米」という字になったという説もあるほど、米作りはたくさんの準備や手間がかけられています。それをほとんどやってくれ、いいとこ取りの田植えや稲刈りだけ体験させてくれる友人には感謝しかありませんが、友人からすると、田植えや草取り、稲刈りは特に人手が欲しいということでもあります。そういうわけで人が集まってきて、わいわいと力を合わせて作業していく。米作りというのは、コミュニティの形成に大きな役目を担っていたのだなあとつくづく感じます。

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頭のどこかでなぜか野良仕事は汚くて大変でいいことないと思い込んでしまっていたところもありましたが、お天道さまのもと、清々しい風や匂いを思いっきり感じながら、食べるもの、生きるために直結した作業を全身を大いに使ってする仕事。それがなんと豊かで理にかなっているのだろうかと実感できるようになったことは、私にとって大切な財産になっています。


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いい田んぼにできると言われる稲麹。
深緑の塊がついてるのわかりますでしょうか。
宝物を見つけた気分になりました。


それではよい秋の終わりをお過ごしください。




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