人は幸せになるために生まれてくる
人は、なぜ生まれてくるのか。
それは、幸せになるためだ。
哲学的なこととか、社会的なことではなくて、脳神経伝達物質的に考えて、人間の行動は「幸せを感じるか感じないか」に左右されているでしょ?
食べると幸せになるのも、
眠ると幸せになるのも、
スキンシップをはかると幸せになるのも、
全部うまく「生きる」に対応していて、人間の造形ってのはほんとにスゴイなと改めて思う。
知らなかったことを知れた時、
頑張った努力が実った時、
人から認められた時、
誰かを幸せにしたと感じる時、、
「幸せ」を感じることは、うまく「生きる」ことそのものだ。
これがうまく感じられなくなってしまうと、
眠れなくなったり、
人を愛せなくなったり、
愛されることしか考えられなくなったり、
酒や薬に溺れてしまったり、、
何なんでしょうね。
この世界に生まれてきた時、
ただ「快」か「不快」かしかなかったと思うんですよ。
それがいつからか、
「あの人より幸せ」
とか、
「あの人より不幸」
って、
相対的に幸せを図るようになってしまった。
水道の整っていない地域に生まれることは不幸なのか。
戦争地帯に生きることは不幸なのか。
現代日本に生きることは幸せなのか?
富裕層に生まれることは幸せなのだろうか?
現代文明を享受できることが幸せだと言うなら、
この先新しい文明が誕生した時、それを知らない私達は不幸ということになってしまう。
でも、知らないことは不幸だろうか?
知らなくとも、私は今幸せだ。
夜、安全に眠る場所があり、
食べることができて、
父がいて、母がいて、
幸せだ。
幸せは、
価値観が決めるものではなくて、
一瞬一瞬の、
「生きている実感そのもの」
であるように感じる。
もしも未来人がやってきて、
「アンタ達原始人は不幸すぎて見てらんないから、この文明の利器を使いなさい!」
って、なんかスゴイ幸せになれるものをくれたとしたら、
それはそれで、すごいハッピーな気持ちになれると思うけど、
それを失ってしまったら、今の生活で幸せを感じるのは難しくなると思う。
人間ってのは、そうやって「幸せ」を維持するために、進化してきたんだなぁ…
もし今、これを読んだあなたが、
自分を「不幸だ」と感じている状況なら、
何かと比べていないか、確認してほしい。
聞き及んだ誰かの状況と、
過去の自分の状況と、
かつて見てきた家族の状況と、
比べてはいないだろうか。
それらは羨んだところで手に入るものでもないし、
「今」自分が幸せを感じているかどうかの方が重要じゃないだろうか。
感じられないなら、どうすれば感じられるのか、動く方が先決じゃないだろうか。
自分を幸せにするのは、自分しかいない。
使い古された言葉だけれども、
過去と他人は変えられない。
今と自分しかコントロールできない。
コントロールできる範囲で、
「自分が幸せを感じる方法は何か?」を、
常に感じていくことが、
人生を充実して生きる秘訣じゃないだろうか。
他人の幸不幸を、勝手に決め付けてはならないように、
私達自身の幸不幸もまた、決め付けられるべきものではないのだ。
「こうであれば幸せに違いない」というのは、知識による単なる思い込みにすぎない。
激動の時代にあって、何が幸せの条件かなんて、どんな学者も立証できるものではない。
もっと赤ん坊のような嗅覚で、どちらの選択が、自分にとって「快」か「不快」かを、選り分けていく敏感さが、これからの時代を生きる私達が豊かに生きる方法なのではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?