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私が自分で選んでいたということ?

私はあることで、選択の余地がなかったとか、選ばせてもらえなかったと考えていた時期がありました。

今回は、本当は自分で選んでいただけだったと気づいて、一気に力が抜けたお話しです。


宿命と運命について、じっくり考えたことがなかった

師の話を聴いたのは、かれこれ10年ほど前、この話題が最初でした。
説明してくれた内容の要約は以下の通りです。

宿命とは、既に決められていて自分ではどうにもできないもの。
運命
とは、自分で選んでいくもの。

例えば
私たちは生まれて死ぬことは決まっている。それは変えられないことでなので、宿命。
その一方、決まっているゴールに向かう道は自分で選べるもの。これが運命。

運命は、その選択に正解も不正解もない。ただ、ゴールまでに通る道が違うというだけ。選んだ結果をうけとめて、そこから学んでいくのみ。

選択肢がないと思っていた私が選択していたこと

なるほど~、そうなのか~と、師の説明を聴いていた私に起こった疑問がありました。

私は選べなかったと思っていたんだけど…。
誤解を恐れずもっとハッキリ書くと、母親に選ばせてもらえなかったと、当時までの私は考えていたのでした。

あるとき、仲間の一人が言ってくれました。
それはさ、「おかあさんの言うことをきく」という選択をしたんだよ。

ああああ、そういうことか~と、目から鱗の私でした。

私に対する母からの指令は、いくつもありました。

例えば
将来の仕事は、〇〇になりなさい。
あんたは、県内にいなさい。県外に出ちゃダメ。
といったもの。

これ以外にもありましたが、それはまた別の機会に。

子どもの頃から言われ続けていた母の指令は、私にとっていつのまにか、逆らうことのできない命令となっていました。

母の言いなりになった理由はこうだ

母の言葉を、逆らうことのできない命令と思い込んでいた私ですが、あるとき気づきました。

本当は、逆らおうと思えば逆らえたということを、私はうすうすわかっていたはずだ。

だったらなぜ嫌だ嫌だと十年以上も思い続けながら、結局母親から言われた職業に就いたの?

そこには、私のこころの奥にあるものが影響していました。
それは、「恐れ」です。

母の怒りは、私にとっては頭で考える以上に強い恐怖となっていたのでした。だから、母の怒りをかわない選択をするようになっていました。


もっとハッキリ言うと、母親の言いなりになっている方が楽だったのです。

いったい私はどんな職業に就きたいのか
何が合っているのか
その職業に就くためには何が必要なのか
どんな進路に進む必要があるのか等々
考えたり悩んだりすることを避けられました。

そして何より、母の機嫌がいい。

こころの中では、仕事は〇〇になれ!と言われ続けることを嫌がり、その職業に就くのは嫌だと思っていた私です。

ところが
母親の機嫌を損ねて怒りをかうことをおそれるあまり
自己主張して母親とぶつかり合うことを避け
自分で模索する苦労も避け
言われたとおりにする選択を、私自身がしていたのでした。

見抜くと力が抜けて楽になる

こんなことに気づいたら、ショックを受けるのかと思いきや、私は力が抜けてすごく楽になりました。

母親のせいにすることに対して感じていた罪悪感が、薄れましたから。

そしてどうやら、こころの奥に潜んでいる恐れやエゴといったものは、そこにあることに気付いてあげると、むしろ救われていくようです。

もちろん、内容によっては痛みをともなうこともあります。それはそれで、無理に深堀する必要はないと思っています。

こころの奥を探れるときも探れないときも大切なのは、その時出てきた感情や思考を、悪者にして責めたりしないこと。ましてや、なかったことにもしないことなんです。師がそう教えてくれました。

自分の選択だなんて、思えない時もある

ただね、自分で選んだことなんだと、考えて片付くことばかりではないです。

それはそれで、かまわないんです。
無理に自分の選択の結果だと納得する必要はありません。
人に納得させようとする必要は、もっとありません。

この考え方が絶対的な正しさじゃないんです。
どうか、ここは頭の片隅に入れておいてください。


★ふうはこんな人↓

★母親との関係性について考えていること


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