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「感謝しなければならない」という呪縛から自分を解放するために

感謝のこころは美しく素晴らしいものだと思います。どんなことにも感謝できるとしたら、それは幸せなことだと思っています。

かつて私はある人から、あなたは感謝が足りていないという意味の言葉をもらったことがあります。あの頃の私は、そうだったかもなと、今は考えています。

ですが、「すべてのことに感謝しなければ」という義務感や、「感謝しなさい」という強制からは、抜け出した方がいいとも思っています。

ここでは、感謝を言葉にするかどうかではなく、感謝の気持ちを感じられるかというところにフォーカスします。

感謝できていないことをダメだと決めつけない

人間ですからね、どうしたってネガティブな感情や思考に支配されることはあります。受け入れられないと思うこともあります。それもこれも何もかも「感謝しなければならない」と考えた途端、こころは感謝とはかけ離れた方向へいってしまいます。

これは、自分に対しても人に対しても同じですよね。強制や義務からは放れたいです。

感謝できていないことでもそれ以外のことでも、責めや否定はされた側のこころを委縮させてしまいます。人によっては、すぐには向き合えないほどの痛みを感じていることだってあります。感謝がわくまでには、時間が必要なことがあるんです。それぞれ必要な時間が違うだけ。

なので、今感謝できない人のことも自分のことも、いちいち評価してダメだしする必要はありません。

目の前にいる感謝できない人も、その瞬間は感謝がないかもしれないけれど、その先ずっと同じとは限りません。もしかしたら、感謝していないと見えているだけなのかもしれません。

感謝より先にやることがある

感謝より先にやることは、自分の気持ちに正直になること。

これ、感情のままに生きろといっているわけではありませんし、言いたいことは相手にいつでもなんでも全部言えということでもありません。

わいてきた感情や出てきた思考を、なかったことにして押し込めてしまうのではなく、まずは自分で認めるということです。

相手の言動に対して自分がどう感じるかは、コントロールできません。感情は瞬間的にわいてきますから。

ネガティブな感情や思考を悪者扱いする必要はないし、その感情や思考が出てきた自分を責める必要もありません。出てくるにはそれなりの理由が、こころの奥にあったというだけのこと。

出てきたものを認めないと、感謝はできなくなるばかり

わき上がった感情や出てきた思考を否定的にとらえたり、奥に押し込めたりなかったことにしようとしたりすると、苦しくなるだけで感謝どころか頭の中の罵詈雑言は、肥大していくばかりです。

そんな状況で感謝がこころの中からわきあがってくるでしょうか。どちらかというと、感謝という噴水の吹き出し口をどんどんふさいでしまうことになっていくのでは?

勿論、口ではなんとでも言えます。とりあえず感謝の言葉を口にすることを、否定はしません。
ところが、こころと裏腹にその場しのぎで感謝の言葉を発したことが、罪悪感につながる場合もあります。

それは、相手に対しても自分に対しても嘘をついているんだと、無意識のうちに判断してしまうから。そもそも、嘘が全て悪いわけではなにのにね。

人はとかく、こうして何事につけても諸々の基準で判断を下してます。いったんその判断はわきに置いておくといいんですよね。

ゆるんでくつろいだこころ

誰かから文句を言われたり怒られたりすると、体に力が入りませんか?私は、結構力んでしまっているようです。

この力みは、なんだかこころが戦闘態勢をつくっているみたいですね。防御態勢を強化しているとも言えますが。

自分の感情や思考を否定的にとらえ続けると、やはり戦闘態勢をつくってしまいます。

ところが、否定せず感じたままを認め、考えたままを認めていくと、この力がゆるむんです。戦闘態勢解除です。

すると、こころにもゆとりができます。自分のことを責めずにいると、目の前の人に対してもおだやかに対応できます。

その人の言動の奥にある思いやりに気付き、こころがあたたかくなることもあります。

こころにゆとりがある穏やかな状態だと、自分には不要だと判断した提案に対して、丁寧にお断りすることもできます。しかも、「ありがとうございます」なんて、感謝の気持ちが自然とわいて伝えることもできます。

師が伝えてくれたことが全てにつながっていた

師から出会って間もない頃、言ってもらいました。
「自分のことを一切責める必要はないの。何も否定しなくていいの。自分に対してもっと甘々になって」と。

あの頃は、言われてこころがほぐれた感覚がありました。その後、この言葉の奥深さに気付いていったのです。自己否定や自分責めを手放すことから全てが変わっていきましたから。

自己否定、自分責めが強烈だったあの頃の私は、人の目を気にし、人から嫌われることを恐れるあまり、ねばならない思考で自分を縛りあげていました。
その呪縛を少しずつ緩めていく作業が、あの頃から始まっていたのでした。ゆるゆるとゆるんでいくにしたがって、こころのフィルターが剥がれたり薄くなったりしていきました。視野が広がったとか視点が変わったとも言えますね。

そして、師の塾(宗教ではありません)に通ううち、私のこころのどこかにかくれていた感謝の噴水の吹き出し口の掃除ができていったみたいです。
感謝の気持ちが吹き出し始めたら、こんなにあたたかく安らぐ感情なのかと、驚いたことを覚えています。


ふうとはこんな人↓

★師から学んだことを続けてたどりついた、母への思いはこちら↓


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