職場は人生の縮図
最近色々な事が起きていておもしろい。
シンプルにおもろい。
そうさな…。
動物園でお猿がウッキッキーと騒いでるのを遠目から見ている感覚に近い。
歳を重ねると俯瞰して見る癖が付いて来て、第三者目線で物事を見れるようになって来る。
良いのか悪いのかはさておき、職場は本当に人生の縮図を表していると感じる。
それはどこでも同じで、様々な場所で様々な人間模様が繰り出され、当事者になると面倒だが、面倒を起こさないように過ごしているので自分は特に問題無い。
もらい事故以外は受けないように日々平々凡々と暮らしている。
人間は3人を越えると揉めだすのは当然の事で、職場だろうとなんだろうと一緒の事である。
人と人とが関わり合う事は面倒な事なのだ。
しかし、更に面倒な事に人は独りでは生きる事はできないのだ。
どこかしらで、誰かに支えられ、助けられながら生きている。
『一人は気楽、独りは寂しい』
こんな言葉をどこかで聞いた事があるが、まさに孤独とは絶望である。
耐えれる訳が無いし、まず無理なのだ。
ありがたい事に助けてくれて、笑い合える友達も沢山いるもんで本当に自分は幸せだと感じるのだ。
頼ってもらえたり、時にはふざけ合って、時には怒られたり、色々な事を教えてくれる存在が近くにいる。
本当にリスペクトする人たちが多くて嬉しい。
どこの環境であろうとも、気づけば沢山いてくれて本当にありがたいし恵まれてるなと思う。
お陰様でここ数年でようやく人嫌いも無くなり、人付き合いも好きになりましたよ。ええ、まあ。
自分は大した事の無い底辺である自覚ができた。
これが大きい気がする。
誰でもフカフカのソファに深く腰掛けて王様気分で居たいものだ。
しかし、人生はいつでも前傾姿勢で居なくては攻めれる時に初動が遅くなるのだ。
だからこそ、底の底で、何も無い空っぽな存在だと自覚することが大事だと思う。
この世は空であり、未来も過去も無く、今この瞬間しかない。
空も宇宙もどこからなんて概念はなく、足元を離れた瞬間から空(そら)であり、その場所は空(から)であり、空(くう)なのだ。
その空(くう)の中にもエネルギーがあるから、空気と呼ぶのだ。
その目に見えない空の気を吸い、人は生きているのだが、可視化できる部分にしか目が行かない者も世の中には多くいる。
昨今の情勢悪化からなのか、単に情報化社会の恩恵によって、悪目立ちしているのかは分からないが、よく見ると言うか、目に余る。
さながら、祭りの日や初詣の時だけうじゃうじゃと這い出て来るヤンキーのような存在だ。
今までこの人たちはどこにいたのだろうって感じ。
若干話が逸れそうなので、戻すが職場でも人と人との信頼関係で仕事は成立している。
上司や同僚との協力・競争、時には衝突もあったりと、多様な人間関係を経験する。
職場イジメもあるかもしれない。
セクハラ・モラハラ・カスハラ・スメハラ、様々なハラスメントが浮き彫りになっている。
会社の経営方針でもまた社内の空気も変わるだろう。
経営陣が体育会系だとブラック企業さながらトップダウン経営になるだろうし、ボトムアップで部下が上司に投げて行く会社だってある。
因みにわたしはボトムアップ形式でバンドでもなんでも運営するのが好きである。
だから、後輩も作らないフラットな関係が好きなのだ。
ブレインは多ければ多い程良い物が生まれ、研ぎ澄まされる。
今時トップダウンだの、ワンマン経営だの反吐が出る話だと思う。
パーソナルな部分ができているだけで、他者を使う事に長けていない者の大弱点である。
前置きがめちゃくちゃ長いが、この辺から本題にぬるっと突入していく(∵)
人は誰しもが承認欲求を持つのだ。
それは前途伝えたようにひとりで生きる事ができない存在だからだ。
どんなに奥手でもなにかしら生きてればアピールしてしまうのだ。
承認欲求の説明
承認欲求とは、他者から認められたい、評価されたいという強い願望のことです。誰しも程度の差はあれ、承認欲求を持っているものです。
承認欲求が生まれる背景
人間関係における安心感を求める本能的な欲求: 人間は社会的な動物であり、集団に属し、他者から認められることで安心感を得ようとする本能的な欲求を持っています。
自己肯定感の向上: 他者からの承認を得ることで、自分の価値や能力を感じ、自己肯定感を高めようとする心理が働きます。
社会的な地位や役割の獲得: 承認は、社会的な地位や役割を獲得する上で重要な要素となります。
過去の経験やトラウマ: 過去の経験やトラウマによって、承認欲求が強くなっている場合があります。例えば、幼少期に十分な愛情を受けられなかった経験などが影響している可能性があります。
承認欲求の表れ方
他者の評価を過度に気にする: 他者の意見や行動に過敏になり、常に自分の評価を気にかけている。
完璧主義: 常に完璧を目指し、失敗を恐れる。
承認を得るための努力: 認められるために、努力を続けたり、周囲にアピールしたりする。
SNS での承認欲求: SNS での「いいね」やフォロワー数に執着する。
競争意識: 他人と比較し、優位に立ちたいと強く願う。
承認欲求のメリットとデメリット
メリット
モチベーション向上: 承認欲求は、目標達成や成長を促す原動力となる。
自己成長: 他者からのフィードバックを受け入れることで、自己成長につながる。
人間関係の円滑化: 承認欲求は、良好な人間関係を築くための潤滑油となる。
デメリット
過度なプレッシャー: 他者の評価に過敏になることで、常にプレッシャーを感じ、ストレスを抱えやすくなる。
自己中心的行動: 自分の承認欲求ばかりを満たそうとし、周囲に配慮が欠ける行動をとる。
他者との比較: 他人と自分を比較し、劣等感を感じやすくなる。
依存症: 他者の承認に依存し、自分自身で判断することが難しくなる。
承認欲求と向き合う方法
自己肯定感を高める: 自分の良い面、長所を認め、受け入れる。
他者の評価に振り回されない: 他者の意見は参考程度に受け止め、自分の価値観を大切にする。
完璧主義から脱却: 失敗を恐れない。失敗から学び、成長することを意識する。
承認欲求の源泉を探る: 自分の承認欲求がどこから来ているのか、原因を探ること。
心の安定: 瞑想やヨガなど、心を落ち着かせるための方法を取り入れる。
まとめ
承認欲求は、人間にとって自然な欲求です。しかし、過度な承認欲求は、心の安定や人間関係を阻害する可能性があります。自分の承認欲求と向き合い、健全なバランスを保つことが大切です。
との事だ(∵)
最近のAIは便利で良いよね(∵)
どれだけ承認欲求が強くアピールをしても、パーソナルな部分だけを押したところで、期待する程興味持たれる訳無いのだ。
それは自分を過大評価し過ぎているだけであり、身の程知らずも良い所な気がするのだ。
自己肯定感を上げて全力でアピールしても良いし、「私は私だ」のスタンスであればそれでも良い。
そうなんだけどね。
日本人ってそゆとこムカッ腹立つでしょう?
だからこそ、無駄にプライドを持って私が私がとやってる人はいずれ淘汰されてしまうのだ。
現状の会社内のパワーバランスは完全にひっくり返った感じはする。
別に自分が勝った負けたの話では無いのだが、調子に乗ったり、人を蹴落としてまで自分に優位性を持たせたい人間はいつしか淘汰されてしまうのだ。
誰が味方してくれるんだ?
そんなものだ。
過去のお前が今のお前を見て誇れるか?
自分の行動や発言を振り返って過去の自分が今の自分を誇れる事ができないのだったら、こんなにもみっともない話は無い。
ダサいと思う。
背中見せて生きるとは、自分自身に対しての事だと思うのだ。
それは過去の自分にカッケーと思われるような人間になってないと、多分恰好悪いと思うのだ。
どうだろう?
他人の文句や陰口だのなんだの色々あるけど、その発言分頑張って見返さなければ「どの口が言ってんだ」で、終わってしまうのだ。
人から認められて褒められたければ、四の五の御託を並べてないでやるしかないのだ。
方向性はそれぞれにあるだろう。
闇雲に進めば道に迷うかもしれない。
だからこそ、考えながら一歩一歩それぞれのペースで進めば良い。
ただ、その一歩一歩に全集中をしてれば、そのうちに人に対してなんて何も言わなくもなるだろう。
他人から何を言われても、そこまで気にならなくなるだろう。
自分が自分の事を信じ、過去の自分に誇れるような行動をしていればそれだけでいいのだ。
承認欲求は他人に向けての欲求だが、満たされるには自分と向き合う他に解決方法は無いと思うのだ。
仕事だろうとなんだろうと、何事も一人じゃ何もできないのだ。
どれだけ功績が欲しくとも、それは難しい事なのだ。
自分だけが良ければ良いと手前の事だけ考えていれば、必ずその場限りのトラブルにばかり遭遇してしまうのだ。
仕事ができない人間は必ず、仕事をしているかのような忙しい素振りをするのだ。
忙しいアピールをする奴は暇でサボってる奴よりもタチが悪い。
忙しくしてる奴程に他人のせいにしたり、自分と同じ位頑張れと言う迷惑なマインドに繋がるのだ。
それで責められてもほぼ、当たり屋の所業である。
何事もセンスが無い。
仕事に対して承認や感情を一緒にするのは本当に良くない事だと思う。
だからこそ、何かに一生懸命になれるような事を持つ方が良い気がするのだ。
なぜかと言えば、そこが主軸になるからだ。
わたしは今の職場はとても過ごしやすくなり、友人と一緒に仕事をしているし非常に充実している。
内部の環境が変わったからだ。
環境を変えようとしていた訳では無いのだが、一気にガラリと変わった瞬間がありそこから非常に過ごしやすくなったのだ。
色々と友人達に守ってもらえたり、助けてもらい支えてくれたからこそ今があると思うのだ。
自分はたまたま周りの人に恵まれていたからこそ解決ができた問題だが、お仕事をしていてもしも問題があれば、証拠と言う証拠を集めましょう。
証拠が無いと弱くなる可能性があるので、録音・録画をして、最終的に労働基準局に言った方が良い。
心を病んでいるのであれば、しっかりと心療内科で診断書をもらい、提出をしましょう。
ここまで話して、以前より思う事があるのだが、なんでもかんでもそうだが偉そうにしてる奴ってのはどんな神経してるのか甚だ疑問である。
会社に雇われてその態度を取ってるのは人のまわしで相撲取ってるだけにしか過ぎないのだ。
時々いるけど、こうした人間性の奴は必ずと言って良い程に友達がいない。
そして、ちゃんと嫌われているのだ。
そりゃそうだ。
誰がこんな人間を助けたいと思うのかって話である。
そこまで承認されたいのであれば、まず背中を見せて生きていけって話である。
話が変わって来るが、敬語や挨拶をして当たり前だと思っている人は日本には多くいるだろう。
そのような教育があったからだ。
自分も勿論敬語や挨拶は大切だとは思っている。
しかしだ。
自分で挨拶されなかったり、敬語で話されなかった時に失礼な奴だと他人を責めるのはお門違いな気がするのだ。
言葉遣いを気を付けられたり、挨拶をされるような人間になる事。
まず、こうした人間になるべく自分が率先をして生きなければ恰好悪いと感じるのだ。
そんなに他人から挨拶されたいなら、自分から挨拶をすれば良いのではないだろうか?
そんなに丁寧に話しをして欲しければ、偉そうに自分が話してないか、まず己に聞いてみる事が大事だと思うのだ。
こうした人間は、まず自分を見ていないパターンが多い。
自分の事を全く理解をしていないのだ。
こうした人間はかなりの確率でリスペクトされていない。
わたしの場合は失礼な人間に対しては失礼な態度を取る事だけは決めている。
無視をするなら逆に無視をしていれば良いのだ。
我関せずが一番良い。
逆にこっちが無視をしている位で考えておけばいい。
横柄な態度を取る人間なんて最終的にビンタでもしてしまえば良い。
そもそもそれは対人間だと考えるからイライラするだけで、一番初めに戻るがお猿さんが騒いでる程度に考えておけばいいのだ。
とは言え理解に苦しむのは雇われの身である奴が偉そうにしているのはなぜなのだろう(∵)
何事もステータス重視にしても、そこに何も無い事だけは理解した方が良いと思うのだ。
個人事業主として全責任が自分に降りかかるような環境で仕事をする方が良いと思うのだ。
他者を責めている暇があるならば、道のゴミでも拾って社会に役立つ事を少しでもしてみたらどうだろうかと常日頃より思う所存であるヽ(∵)/
何もリスペクトが生まれないよねそう言った人間は。
大概話しもおもしろくないし共感もできないのだ。
とかなんとか言って面倒な御託を並べているわたしはブーメランでかえって来ないように生きようと、反面教師にして生きようと思うのだ。
自分の環境で起こり得る全ての事は自分が起こしている事を忘れてはならない。
だからこそ、自分と向き合いながら生きる事が大切なのだと日々思うのだ。
過去も未来も無く、今この瞬間を自信を持って、自分を誇れる人間でありたい。
胸張って虚勢を張っても、肩肘張って偉そうにしても、どうせそこには何も無い。
背中を見せて生きて行こう◎
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