地獄を見てるのかと思った。(4)
ずっと違和感があった。
あたしの前職はハローワークから紹介された事務の仕事。
障害者雇用で嘱託職員という立場。コロナが流行る前はよかった。
少なくとどんな状況なのかということは掴めたし、会話の糸口もつかめた。
問題はコロナ後。
マスクでの勤務が必須の状態となり
口が隠れてしまうだけで、こんなにも情報を得るということが大変だとは、あたしも思わなかった。
あたしのデスクはオフィスの出入口近くにある。
ある日下階のフロアの所長代理が私に話しかけてきた。
当然、何を言われているのかわからない。
あたしはスマホを差し出して
「すみません、耳が聞こえないのでこちらの音声認識に向かってしゃべっていただけますか」と言ってみた・・・や否や、20代前半であろう所長代理はあたしに目もくれず、
近くにいた新卒の平井君のほうに言ってしまった。
あっけにとられて二人の様子を見ているしかなかったが、所長代理はどうやら用件を平井君に伝えているようだった。
こうして見ると、マスクをしてたら喋っているのか喋っていないのかすらも分からないな…と、思いながらあたしは席に戻った。
所長代理は、いつのまにか居なくなっていた。
人として見てもらえなかった気分で、なんだかやるせなかった。
音声を文字に変える認識アプリが入ったタブレットと、マイクが本社から貸与されたが、それが結構使えない。
認識率が低く誤認識ばかり。
真面目な内容であるはずなのに
「魔王」だとか「セックス」だとか「にゃんにゃん」だとか。
いやいや。ないだろ、と突っ込みたくなる語句が散りばめられて表示される。
そもそもマイクを持って喋ってくれる人も稀だ。
朝礼前に、「よろしくお願いします」と朝礼当番の職員に渡すが
マイクを持ち忘れて話す人が多い。
「ほかに連絡事項はありますか?」となった時に、連絡事項を話す人にマイクを渡してもらえないことがほとんどだ。
取り残されてしまう。
近ごろ音声認識の技術が飛躍的に伸びていて、さらに精度もとてもよくなっている。一言一句ほとんど漏らさず認識してタブレットやスマートフォンの画面に文字にしてくれるため、あたしも前職では認識率が比較的高い自分のスマホの音声認識アプリを活用していた。
しかしそれでは足りないな、と感じる。
仕事の用事であるなら口の形が判るようマスクをずらしてくれる人もいるが、周りの人が話題を共有し、楽しそうに話しているとき、あたしは理解できずに見ているしかない。
聴者であれば聞こえてくる雑談の中で得ているのであるろう情報を、たくさん取りこぼしているだろうなと自覚せざるを得ない。
会社で働くということは、組織の中にいるということ。
組織の中にいるということは、人の中にいるということ。
コミュニティに所属するのだ。
おそらく、コミュニティに所属するときに大事なのは帰属意識。
これがないと孤独を感じ不信感とストレスで人間は弱っていくだろう。
「自分はここにいていいのだ、ここで自分は活きていく」
こう思えるには
「冊子を〇個倉庫から持ってきて」「この書類を作って」「ここのデータ間違えてるから」こうした声掛けだけでは帰属意識は生まれない。
仕事の指示や連絡事項がいくら伝わろうが、それだけではコミュニケーションが充分だとはいえないだろう。
ろう難聴者が「耳が聞こえませんが、音声認識があるのでこれに向かって話しかけください」と言っても
相手が面倒で、あるいは遠慮して、遠くにいる聴者に話しかけに行ってしまう。
「音声認識を使えばスマートフォンやタブレットに文字が出る」と、理解への道はそこまでに留まってしまうのだ。
そうなると「音声認識があればろう難聴者にも話していることが通じる」「会話ができる」というふうに理解が深まるところまでは、どうしたっていかない。
このような『人』に囲まれて働くろう難聴者は
いつまでたっても「会話が出来ない人間」の域を脱せない。
あたしはこんな環境で働いていた。
ダイバーシテイ推進部のアンケートにも書いた。
直属の上司にも話しをした。
課長にも話した。
なぜか何事もなかったかのように立ち消えてしまう。
何かが変だ…
そんな違和感がコロナ禍のマスク社会であたしの気持ちを蝕んでいった。
口が隠れてしまうだけで
こんなにも情報を得るということが大変だとは、あたしも思わなかった。
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