2020/2/19(水)

 今日は休みだった。今日こそは、美術館へ行こう、服を買おう、公共料金を支払おう、履歴書を書こうと想っていたのだけれど、結局唐突に憂鬱が襲いかかってきてなにもできずじまい。自分の悪い癖で、いろいろなことを先延ばしにしてしまって(現にこの駄文を打ち込んでいる今も優先されるべきゴミ捨てと入浴を後回しにしてしまっている)、その結果1日にいろいろなことをやろうとして結局どこから手をつけて良いかわからずになにもできないということが度々ある。

今日やったことといえば、日課であるアイドル部の配信の視聴と、溜まっていたアーカイブの消化くらいだ。他はといえば、「オリジナルの『飛び出し坊や』看板を作りたい」とか、そのための絵の練習とか、つまらない韻を踏める言葉ばかり考えていた。

「自分が思いつくことはすでに誰かが考えていること」とはまさにその通りで、調べてみるとすでに実践している人もいるし、独自性のあることでも上述のような後回し癖ととにかく金銭と時間的余裕(これは言い訳に過ぎないが)がないのでなかなか実施できない。つくづく、フットワークが軽い人がうらやましい。

せめて、と思い、日をまたぐころになってはじめて、先日から読んでいる講談社学術文庫版の『枕草子』上巻を開く。そういえばさいきんFGOに清少納言が新規に実装されたらしく、Twitterでもよく見かけるけれど、断じて、だから読みはじめたというミーハーな動機があったわけではない。そもそも私はFateシリーズをまったく知らないのだ(いったい誰が気にすると思ってこんな言い訳をしているのだろう。『バーナード嬢曰く、』にもそんな話があった気がする)。

三十三段、「小白河といふ所は…」まで読む。
三十一段「説経の講師は…」、三十二段「菩提といふ寺に…」に続いて、平安期の法会の話題が続く。三十一段は「説経の講師は、顔よき」ではじまる有名な章段であるけれど、この文章を書いた当時の清少納言としては「少し年などのよろしきほどは、かやうの罪得がたのことは書き出でけめ、今は罪いとおそろし」と道心の薄さを嘆きながら、法会と聞けば必ず行くほどに熱心な人をすこし皮肉るような記述が続く。

 三十三段は「花山天皇退位直前の寛和二(九八六)年六月十八日から四日間開催された事実を背景」としながら、小一条大将殿こと藤原済時の小白河邸で行われた法華八講における藤原義懐の魅力的なふるまいや、清少納言と交わした機知に富んだやりとりを書き出す。この法華八講に、当時いまだ中宮定子に仕える前の清少納言は「ほとんど暇を作っては毎日行っていた」という。

 法会が行われた旧暦の六月十余日は暑い日で、公達や女房の車も早くから所狭しと押し寄せていた。法会が始まってしばらく、清少納言は法会の途中で帰ろうとした時に、おなじく抜け出していた藤原義懐に「やや」と笑いかけられる。しばらくして、清少納言は人をやって「五千人のうちには入らせ給はぬやうはあらじ」(あなたもお釈迦様の説法を聞かずに去った五千人の増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷のうちの一人、同じ穴のむじなでしょう)と伝えさせた。
 これは舎利弗の三度の慫慂を受け、まさに釈迦如来が未曾有の法を説かんとするときに、罪根が重く、未だ悟っていないのに悟ったと勘違いし、またそれを騙る増上慢の四衆五千人が退出したという『法華経』方便品の逸話をもとにしている。じつに機知の効いたやりとりである。
 藤原義懐は数え三十、権中納言。一条摂政藤原伊尹の子。父の早逝により不遇な時代を過ごすが、姉が花山天皇の母であった関係で即位前から東宮亮として仕え、花山天皇が即位すると藤原惟成らとともに政務を取り仕切るなど実に有能な人物であった。
 しかし、そんな今をときめく義懐もこの八講のわずか数日余りで出家を遂げる。藤原兼家の策謀によって、半ば強引に主君である花山天皇が出家させられてしまったのだ。こうなっては後ろ盾のいない義懐・惟成も出家するほかない。こうして、花山天皇のきり者、藤原義懐はひっそりと歴史の表舞台から姿を消したのである。
 清少納言も「桜など、散りぬるもなほ世の常なりや。(露を)『おくを待つ間の』とだにいふべくもあらぬ御有様にこそ見え給しか」と述懐しているが、この一段は史書に語られることの少ない義懐の一瞬のきらめきをどこかなつかしげなまなざしで記しているようで、彼らの機知に富んだやりとりもあざやかに浮かんでくるようだ。

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