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敬愛
原作 梵天彪雅
1878年5月14日
紀尾井坂町 周辺
紀尾井坂事件で大久保卿が乗る馬車を襲撃が始まる
長連豪『天誅!』
時を遡り…主役の長連豪さんが能登田鶴浜の子供を集め教鞭を振るい
激しく変わりゆく時代の中で
同じ石川県士族の杉村と陸らと共に左院に征韓論の建白書提出や西郷従道に台湾出兵の従軍願を提出し維新で名を挙げる事の無かった加賀の鬱憤を晴らし石川県士族の名誉挽回を画策。
征韓論建白の際に島田一郎さんと初めて会う。
島田一郎さんの回想…
加賀藩兵として第一次長州征伐、京都派兵、戊辰戦争北越転戦しその功で御歩並に昇格し更なる向上心により政府の軍人を目指すが石川の田舎者と政府の軍人に蔑まれ憤慨し泣き叫ぶ。
怒りから蔑んだ政府の軍人を見返す為に政治を変える事に目を向ける決意をする。
一年経ち、明治7年6月、長連豪は陸に連れられ鹿児島に入る。
清水の桐野利秋邸宅に泊まり私学校に通い西郷南洲翁、桐野利秋様と私学校の者らと交わり傾倒する。
陸義猶『石川県士族、陸義猶と申します。』
長連豪『同じく石川県士族、長連豪と申します。御鞭撻のほどよろしくお願い致します』
桐野利秋『おはんらが石川からきたもんか!遠慮せんとこっちきやんせ!』
桐野利秋『こんお方が西郷先生じゃっと』
一方で…
島田一郎は石川県の青年不平士族を集め県士族民権運動を推し進める政治結社忠告社を設立。
が…県の中枢にいた県の官僚を脅して作った為か忠告社の征韓論の建白書の美辞麗句に不満を持ち
忠告社とは別に多くの警察官を同志とした軍事独裁政権の樹立が目的という政治結社三光寺派を設立する。
シーンが変わり人半年振りに帰郷した長連豪さんが西郷南洲翁や桐野利秋様らに傾倒し石川郡伏見新村内高尾村に隠棲し愛犬を連れて山野を巡る毎日
シーン変わり2年振りに長連豪、再び鹿児島に入るが多くの薩摩士族が軍事独裁制による独立国家のような様相で騒然たる状態。
更に半年後、長連豪さんが石川に帰郷した直後、廃刀令を不満を持った大田黒ら旧熊本藩士族が鎮台を襲撃した神風連の風、政府の開明政策に反対した宮崎ら旧秋月藩士族の秋月の乱、前原らの萩の乱が勃発。
更に…
シーンが変わり明治10年2月西郷南洲翁を押したてた薩摩士族による西南戦争勃発
西郷南洲翁が動いた事を知った島田一郎さんは長連豪さんを連れ旧藩主 前田斉泰公、利嗣公に謁見し加賀藩として挙兵し西郷南洲翁らが率いる薩摩藩兵と共に政府の軍を挟撃する画策をするが…
旧藩主らは新政府に恭順することにより画策は失敗に終わる
時は戻り、紀尾井坂の事件へ
刺客の島田一郎さん、長連豪さん、杉本乙菊さん、脇田攻一さん、杉村文一さん浅井寿篤さんが東京裁判所にて島田一郎さんを先頭に整列
玉乃世履判事『石川県士族、島田一郎、その方儀、自己の意見を挟み要路の大臣を除かんことを企て…長連豪、杉本乙菊、浅井寿篤を誑惑(騙すこと)し明治11年5月14日、府下紀尾井町に於いて連豪以下4人と共に大久保参議を殺害せし科により除族の上…斬罪申し付け候こと』
島田一郎さんら一同はそのまま市ヶ谷監獄へ
最後の御様御用
九代目、山田浅右衛門吉亮が備前長船の白刃を出し現れる
山田浅右衛門『何か言い遺す事はないか…』
島田一郎さん首を横に軽く一往復振り
島田一郎『この期に及んで何もござらん』
首を差し出す島田さん、山田浅右衛門が斬る
山田浅右衛門『何か言い遺す事はないか…』
長連豪『……北の方向はどちらでござろうか?』
山田浅右衛門『…北はあっちじゃが…』
北の方向に指を指す
長連豪さんがその方向に向かい3拝9拝する
(故郷で生きている母に向け先立つ不幸を詫びた)
首を差し出す長さん
山田浅右衛門『………ぐっ!』
刀が震える…一刀のもと長さんの首が跳ねられる
場所変わり
山田浅右衛門『長連豪殿は永らく西郷翁のもとにあって感化を受け石川に帰ったそうだが手前の刀の錆にするには惜しい気がした…』
涙を流す山田浅右衛門
玉乃世履判事『長連豪殿は獄中にあっても誠に爽やかで少しも取り乱したり虚勢を張らず少しも曇りも無かった……惜しい方を亡くした』
泣き崩れる玉乃判事。
回想シーン、鍛冶橋監獄
長連豪さんの前に食事が出される
鶏卵を手に取り割る、黄身を取り出し箸の先に付けて詩文を書く
長連豪が鍛冶橋監獄でこうして書き連ねた詩文を卵木集と名付けられ看守の行為で長連豪の死後、彼の故郷、能登田鶴浜に送られ今でも大切に保管されている。
鍛冶橋監獄の窓から笑顔で空を見る長さん
この紀尾井町の事件は『破天荒の快挙』と世間で称賛され特に石川県の人々は彼らの行動に感化された。
島田一郎と同様にその後、石川県民の中には加賀藩の名誉挽回を果たすために凶行に及んだ者も多くそういった意味では島田一郎らは目的を達したと言っても良いであろう。
ただ、1人異なるのが長連豪で彼は厳然とした気概と風貌を備え二度に渡る鹿児島行きにより西郷南洲翁と桐野利秋に接して彼等を敬慕した。
長は島田のように加賀藩の名誉挽回や新政府に対する不満も関係なく想いは西郷南洲翁、桐野利秋、私学校の者らの仇を討つのみであったのであろう。
後に不平浪士による強行と蔑まれるこの一連の事件は新生石川県への扉を開いたのである。
完