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因縁と和解…

原作 梵天彪雅

1598年……

時の天下人、豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成らの対立は、慶長5年の会津征伐を契機として表面化する。三成は家康が会津攻めに赴いたことを好機として、大谷吉継や毛利輝元らの諸大名を糾合して挙兵した。そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし、次いで北陸や伊勢方面の平定に乗り出していた。
北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である大谷吉継が担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員として、近江大津城城主・京極高次が加わっていた。ところが吉継が北陸から美濃へと転進する最中に、高次は突如東軍に寝返り、手勢を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めたのであった…

しかし…大津城を取り囲む西軍は毛利元康を大将に立花宗虎、小早川秀包ら九州の諸大名総勢15,000の軍勢であった…
大津城の軍勢、僅か3,000…5倍の兵力差があったのである…

京極高次『……よもや、ここまでか…』

赤尾伊豆守『なれば!殿、この赤尾伊豆守!死に場所を所望しとうござりまする!』

京極高次『……すまぬ…』

赤尾伊豆守対立花信正の殺陣


1600年9月15日

大津城東軍敗退により大津城は開城した…

しかし、


立花兵「殿!西軍が関ヶ原にて負け石田殿が総大将宇喜多殿が逃亡したようです」

立花宗茂「なんじゃと…くっ!なれば、大坂城に入り東軍大将、内府に一戦仕掛けるまでじゃ!』

小野鎮幸「はっ!」


大坂城ー広間ー

立花信正『どうか!もう一戦!…』

毛利輝元『無理じゃ……あれだけの兵力差があって勝てぬとは三成も頭だけの男よの…信じた儂が愚かじゃった…』

立花信正『……儂らの戦は終わった国へ帰るぞ……』

十時連貞『…無念でございまする…』

瀬戸内海上

立花の伝令「殿!島津義弘と思われる者が我々の近くにいるようです!」

由布惟信「殿!これは好機ではありませぬか?今、島津義弘を討てばその首をもって内府様に引き立てもらえます故……」
立花宗茂「ならぬ!」

十時連貞「何を悩む必要がおありか!義弘は殿の父君、高橋紹運殿のいる岩屋城を攻めた仇ではありませぬか!」

立花信正「因縁のあるのは確かだが、主を亡くした悲しみはいくらばかりか計り知れない。せめてお国元に帰して差し上げたい」

立花信正「わずかな兵で敗走する、ましてや鬼島津を討つなど同じ武将としてすべきことではない」

小野鎮幸「わかり申した殿がそういうのであれば従いまする…島津殿のもとに参りましょうぞ」

立花信正「皆には苦労掛ける……」

立花信正「島津殿、共に国まで帰りましょうぞ…」

         
こうして、かつての恨みを水に流した立花宗虎は島津軍の護衛を申し出、島津義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた

この時、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂により柳川も攻められていたが薩摩へ無事帰国した島津義弘が宗虎から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという……


        完

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