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「DOTMOV 2006」のためのテキスト

2006年に札幌(SOSO)と仙台(せんだいメディアテーク)、そして大阪(digimeout)で開かれたデジタル映像のイベント「DOTMOV2006」のフライヤーのために書かれたもの。当初は仙台での開催にあたって簡単な紹介を書くだけのつもりだったが、主催のSHIFTの大口岳人さんからのオーダーによりこのような形になった。
2000年代のメディアテークではこのような映像関係の企画が多く行われていたけれども、2011年を境に行われることはなくなる。東日本大震災があったということもあるし、館の方針の変化でもあるだろう。いずれにせよ公務の場の私は頼まれた課題を解決するのが仕事だと思っているのであっさり止めてしまったが、もし、それらが続いていたら2010年代、そしてまだ前半だが2020年代はどうなっていただろうかと思うことがある。
初出:「DOTMOV 2006」フライヤー(2006年)


黒い画面の上隅に1枚の写真があらわれる。そのとなりに1枚、またとなりに1枚……デイヴィッド・ホックニーのジョイナー・フォトグラフィーのように、複数の画像をつなぎ合わせてできあがった全体の画面は、どこかの街の交差点の風景のようである。ホックニーと違うのは、それが写真の集合ではなく、小さな映像の集合であるということ。少しずつ重なったりずれたりしつつならんでいるマルチ画面というところだろうか。
27カ国257作品のなかから選ばれたDOTMOVの「SELECTED WORKS」プログラムのひとつである『New Me』(監督:Aleksandra Domanovic)は、かつて斬新だったフォト・コラージュの技法をまねているようでいて、しかし、映像にしかできない表現となっている。そう感じられる理由のひとつは、作品のなかの「時間」である。それぞれの小さな画面は少しずつ、あるいは、まったく別の時間に撮られた映像のようなのである。その証拠に、たとえば隣の画面に入ると通行人は消えてしまったり、上の小画面では車が発進するが、下の小画面では停止したまま、ということがおきる。そこは交差点であるから通行人や車の行き来が絶えないわけで、数十枚の画面で構成された映像は、複数の時間が同時に存在する、どことなくぎくしゃくした風景を映し出している。
そこに突如現れる一人の白ずくめの人間。そのとなりの画面に一人、またとなりに一人……彼/彼女たちは、そのぎくしゃくした風景のなかに入り込んでくる。しかし、これまでの通行人と違うのは、彼/彼女たちはどうやら同じ時間を共有しているらしい。全員がBGMのリズムに合わせて同じく踊るのだ。複数の時間をもった画面のなかで唯一ひとつの時間軸を共にする奇妙な人間たち。
どのような方法でこの作品が作られたかはともかくとして、映像が写真やグラフィックスと違い抱えている要素である「時間」をたくみに扱った『New Me』。無邪気に「新しい」というのは控えるとしても、ひとつの作品世界のなかで時間をこまやかに見せることで、現実にはありえない世界認識の感覚を与えてくれるこの作品は、映像にしかできない表現のひとつを体現しているといえるだろう。
「テレビみたい」「映画みたい」「CGみたい」という台詞がクリシェになり、どんな映像を見ても既視感ばかりになったように思われる今日でも、未知なる映像表現の可能性は山とある——DOTMOVに集まった作品を見ているとそう感じる。映像での表現がより身近になり、多くの人が手がけるようになったからということもひとつの理由ではあるだろう。しかし、テクノロジーの進歩と普及だけでは説明がつかないような気もする。味のあるキャラクターの絵が独特の雰囲気を醸し出す『2D Slave』(監督:Jacky Lochinghang)や、ひたすらスローモーションにするだけの『Slomo Video』のように、一見ローテクだが魅せる何かをたたえた作品や、映像を「見る」ものから「存在するもの」へと変えるというある種の哲学的な試みですらある『motion texture』など、そこにあるはマス・マーケットから与えられる映像=商品に慣らされた私たちの受容感覚から自由であろうとする意志ではないだろうか。もちろん、今日の世界においてほとんどの自由な表現は、いずれマス・マーケット取り込まれていく運命にあるのかもしれない。しかし、それでも次々と現れる独創的な表現と、それを生み出すクリエイターがいる以上、未知なる映像に出会う幸福は続くのである。



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