世界の名ボクサー:サム・ラングフォード(Sam Langford)「盲目の黒人強打者」
サム・ラングフォード(Sam Langford)
1883年3月4日~1956年1月12日
①経歴
伝説の黒人ヘビー級ファイター、ラングフォード。身長171cm(リーチ 183cm)で、大きくない。それどころか小さい。1902年、マサチューセッツ州ボストンでプロデビュー。資料に乏しいためその時の階級はわからないが、その後、ライト級で試合。どうやら少しずつ体重を増やして最終的にヘビー級に到達したようだ。カナダ・ノバスコシア州ウェイマス出身。非常に貧しい家庭の出。本名は「サミュエル・エドガー・ラングフォード」。祖父はアメリカ開拓に従事した元奴隷。父が虐待的だったことから若い頃に家出。ボストンにたどり着き、「レノックス・アスレチック・クラブ」(ボクシング・ジム)で清掃員の仕事に。スパーリングでボクシングのスキルを磨き、15 歳でボストンのアマチュア・フェザー級選手権出場、優勝。
②プロ入り
1902年、ボストンでプロデビュー。以来、強さを発揮し、プロで付けられたニックネームは「ボストン・タール・ベビー(ベビーフェイスの黒人?)」「ボストン・ボーンクラッシャー(骨砕き屋)」「ボストン・テラー(恐怖)」。対戦相手から恐れられていたのを物語る呼ばれ方。ラングフォードには面白い逸話がある。「7 ラウンドが終わるまで相手をKOしてはならない」という条件を付けられて試合をしたときのこと。8 ラウンド開始時に対戦相手にグローブ・タッチ。「まだ最終ラウンドじゃないのに」と当惑する対戦相手。その後、ラングフォードは直ちに相手をKO、試合終了。もう一つは、試合開始直前にラングフォードが観客に謝罪した話。ラングフォード「すぐに電車に乗らなければならないので、短い試合にしなければならない」。1 ラウンドで相手をKO。再び観客に謝罪した後、電車に乗るためその場を去っていった(何をそんなに急いでいたのだろう?)。1903年12月8日、15 ラウンドのノンタイトル戦で世界ライト級チャンピオンのジョー ガンズに判定勝ち(試合後、二人は良き友人に)。1903年12月23日、ジャック・ブラックバーンと6回戦を戦い、引き分け(その後も二人は何度も対決し、実力はほぼ互角。ブラックバーンは後、ジョー・ルイスのトレーナーとしてさらに名を上げた)。1904年9月5日、王者「バルバドス」ジョー・ウォルコットと世界ウェルター級王座を争って引き分け(ニュー・ハンプシャー州マンチェスター「マサバシック・コロシアム」。観衆1200人)。ラングフォードが攻撃的な攻めでポイントで上回ったと思われたが、勝てず。ウォルコットの反撃も激しいものだったという。1906年4月26日、世界有色人種ヘビー級王座を懸けてジャック・ジョンソンと対戦。後に「黒人初の世界ヘビー級王者」になるジョンソンだが、体格で遙かに上回りながらラングフォードのスピードと強打に苦戦。何とかダウンを奪って判定勝ち。ジョンソンはその後、二度とラングフォードと対戦しようとしなかった(ラングフォードのマネージャー、ジョー・ウッドマンが世界王者になったジョンソンに対戦要求。しかし、初戦のときと比べてラングフォードは体格的に大きくなり、テクニックも経験も身に付けていたためジョンソンは対戦を断った。「巨人」「最強」「偉大」と言われたジョンソンがヘビー級にしては小柄なラングフォードを避けたというのは興味深い話。こういった話が「ラングフォードこそ最強」説の根拠となっている)。
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