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継母ではなく保護者と割り切る

夫は私をoちゃんと呼ぶ。子どもの前でも、親しい友人の前でも。外ではかみさん、と呼ぶ。嫁はやめてくれ、と懇願したからだ。なぜなら、嫁・元嫁の悪口を散々聞いてきたから、同じ言葉で呼ばれたくないと直感的に拒否した。同じ理由で結婚指輪も諦めた。同じものを辿るのは吐き気がする。

連れ子と同居したのは彼らが小3、小5の終わりだった。夫は子どもらにも同じく私をoちゃんと呼ばせた。これが後からずっと効いていたと思う。

そもそも我々、大人からすると非常に残念なことに元嫁は割と近くにずっといる。養育費を出すことも子どもの育児に関して何かを負担することもなく、面会もこちらとの取り決めも守らず、勝手に気が向いた時に甘やかすだけをやる人間でほとほと困っている(現在進行形)。それでも彼らにとっては母であり、母の存在がはっきりあった。

小学生の低学年であってもその辺のことは分かるだろうし、ましてや私のケースは、10才を越えていた。今さら新しい母だとか言ったとしても、新しいも古いもないよ、と言われるのが関の山だ。私とて彼らに対して余計な責任は負いたくなかった。


それでも、彼らを見捨てた母の代わりとしてやれる事はやらねばと頑張っていたあの頃は本当に辛かった。母の代わり、も無理があるのだ。

私の立場は単なる保護者であって、特別な愛情を通わせる義務はそもそもない。自然発生的に何かしらの情が通えばすばらしいが、私は子どもの世話を焼くために再婚したわけではない。保護しさえすれば事は足りる。

だから養子縁組なんてする気はさらさら無い(もちろん、それをする気が湧かない私はひとでなしなのでは、、という時期は経験済)。


行き着く答えは、夫に親として頑張ってもらう。当たり前だ。なんだかんだあっても、彼らを引き取ったのは夫の決断だ。

それでも仕事と育児と大変なのは百も承知。夫が頑張れるように、夫を支援する。フォローする。それが私の役割だ(でも、やりすぎないのも大事)。


で、結果的に巡り巡って子どもらは父の、親の愛情を受けて、それなりにグレることなく育つ。

子どもにもはっきり言った。保護者だから、君たちの父に任されてるから言うけど、単純に大人だから言うけど、と。どうしても言わないといけない時には、そこをはっきり伝えた。

呼び方は地味に大切。言葉には力がある。そこで無理やり押し付けない方がいい。結果的に彼らがキレたりした時ですら、私を名指しするには、oちゃんと呼ぶしかない。それを聞くと心の中でクスクスしてしまう。面と向かってババアとかは呼ばれなかった。オマエとかアンタ的なのはあったかもしれないが、数えるほどもなかった。



継母なんて形式的な名称でしかない。

私はいまだかつて誰かの母にはなっていないのだ。



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