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ボランティアだと思ってみる?
土曜に継子が帰省した。
翌日の夜には下宿先に帰るはずだったが、諸々の事情が変わり、今日は火曜日。1日強の辛抱だと思っていたのが、もう4日目。
しかも明日以降も当面いる模様。さらに明日の夜にはもう1人も帰省するらしい。悲報でしかない。
noteで文字化して、少しは落ち着いたように見えた自分の精神状態は、思ったより壊滅的だった。笑えるくらいダメだった。この数日で同じテーブルで食事をとったのは2回。どちらもうまくできなかった。
そして落ち込む。
この繰り返しを、ここから数週間するのかと思うと気が滅入る。
そして無気力になって自分の生活と夫の生活を侵食していく。もうここいらで区切りたい。
家に居たくなくて言い訳をして外に出る。それができるだけ、いい環境だ。それができなかった頃の私は、ベッドの上で泣き、発狂し続けた。これではまずいと思い、少しずつ少しずつ少しずつ、、、時間を掛けて、外で1人の時間を作る権利を行使していった。これも努力の賜物。
今日は近くの銭湯へ行って、それから散歩をした。遠出しないときはこのどちらかだ。考える糸口がつかめず、ふらりふわりと足元もおぼつかずに何となく歩き、見晴らしがよくなった場所で、座り込み、月と雲のゆくえを眺めていた。
私、これ毎日やるのかな、、しんどいな、、何がしんどいのか。。
この4日間をムダにしてる感が凄い。私は一体どうしたいのだろうか?
彼らとどうなりたいのか、、
恥ずかしげもなく言ってしまうと今の時点で私は、継子との将来を”疎遠になりたい”と思っている。仲良く明るい未来は思い描けない。だからと言って別に不幸になってほしいわけではない。ただ、彼らは彼らの世界でたのしく過ごしてくれればいい。だから、私たちの世界には一定の距離があってほしい。そんな親子関係はいくらでもあるだろう。
だからだろう。私には彼らと良い関係を築く気力が湧いてこない。ただ彼らにとってマイナスにならぬようにはしたいと思いながら、落第点だという自覚はある。
そんな状況の私。どうしてここまで心が拒否反応を示すのだろう。
おそらく”慣れてない”せいだと思い至った。居ない日常を満喫しすぎて、急に変化した状況に慣れていないし、慣れたいとも望んでいない。
人見知り状態であり、初めて人見知りの人の気持ちがわかったような気がする(勝手な解釈)。
でも、人見知りを続けるわけにはいかない。それは主に夫のためと回り回って自分のため。
そう、1にも2にも、継子のことは夫のため以外のなにものでもないのだ。
そう考えると、ボランティア活動だと思うのはどうだろうか。意外にもそう考えたことは今までなかった。これなら、誰か(夫)のため、と割り切り(今までも割り切っていたが)、より具体的な名目を自分のなかで与えることで、役割として冷静に遂行できるのではないか?そんな気がした。
でも、、ボランティアなんて、中学生以来、縁のないこと。でも、中学生の頃は純粋な気持ちでボランティアに参加したことがあった。あれはどういう気持ちだったのか。これを探れば、もう少しいい感じに納得できるのでは?
・・・。
ああ、好奇心だ。そうだ奉仕心とか貢献とか、無償とか、私というやつは、そういうのとはかけ離れた精神の持ち主であって、体のいいボランティアなんていうのは、偽善でしかない。だから、ここまでしんどいのだ。
結局、今日もうまい理由は見つからず。。
でもまぁ、じゃあ好奇心でこの状況を捉えたらどうなるだろうか?
明日、それをやってみてまた実験の日としよう。(←好奇心をくすぐるやつ)