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Stranger「ジョン・ヒューストン特集」(2024 07 19――――08 08)を振り返る② 『勇者の赤いバッヂ』

 前回の記事を出してから多少時間が経過してしまった。批評対象の同時空間を意識するのであればなるだけ早く書いた方がいいのだと分かっているのだが、諸々の制約によって容易くはない。こうした時空間と身体的な制約、それはつまり私という有限の生という問題にはなるのだけれど、その中でいかにテクストを立ち上げるかということがこれから書いていく(であろう)記事に通奏低音とした主題となるだろう。

 いきなり話は逸れるが昨日(今帰宅して日付が変わったばかりだが)8月13日は三鷹市のSCOOLで佐々木敦氏の「2024年のゴダール・レッスン」を聞きに行っていた。映画史の枠組みでゴダールを論ずるというよりはゴダールが映画というある種の装置を用いて世界といかに対峙していたか、あるいはしてるかということについての話で、他のゴダール論とは一線を画した話であった。
 一部を書き出すと、映画とは「映像と音響」によって成し得る芸術表現であって(それは本質的にはサイレント期においてもそうであって)「Sonimage(仏):音+イメージ(ゴダールの造語)」=「cinéma」=「montage:編集」という前提の下、映画における時間はモンタージュ(montage)という繋ぎ/断絶の技法を採る以上、現実世界における時間とは違う形で流れており、ある映画におけるショットの総和は映画全体における時間の総和と同一にはならない。だが部分としての総和は全体を凌駕しうるのではないかというある種の芸術論の話にまで至った。それは既に予感されるように「有限な生」としての人間(「部分」)が、無限である(と何となしに思われている)世界(「全体」)に、いかに向き合うかという主題を提示するのである。
 ちなみに佐々木氏は『Stranger MAGAZINE 001』の「ゴダール特集」に寄稿している。

●8月2日視聴 二作目『勇者の赤いバッヂ』(The Red Badge of Courage)1951年
            (原作 スティーブン・クレイン『赤い武功章』                
西田実 訳 岩波文庫)

 前回の記事に引き続き特集2作目の批評になるが時系列的にはこの作品を観たのは3作目だ。時系列をずらしたのは本作が『光あれ』に引き続きモノクロでかつ戦争を主題としたものであり、公開作品順の時系列に沿っているということもある。またこの次の作品に繋ぎやすいということもある。
 本作は冒頭で伝記のような書物がめくられ、画面を観る者がその物語を読むかのような語りから始められる。アメリカ南北戦争の北軍のとある部隊、その一兵卒の若者が物語の主人公だ。新兵ばかりが集められた部隊であったが中々戦闘に加わらせてもらえない現状に不満が噴出していた。しかしある日いよいよ初陣が近いという噂が広がると部隊内の兵士たちは待ちに待ったと言わんばかりに浮かれ出す。そんな中でこの若者(ヘンリー)は恐怖を隠し切れずにいた。
 やがて迎える緒戦、南軍を迎え撃った部隊は幸先よく撃退に成功する。ヘンリーは微かに手ごたえを掴み、木漏れ日にカタルシスを感じるのも束の間、直ぐに敵軍の第二波が押し寄せてくる。目前に迫る敵軍。その圧に負けたヘンリーは戦場から逃げ出してしまう。散り散りとなった部隊、だが逃走中に味方部隊が勝利したことを耳にする。ヘンリーは再び戦線の方に戻ろうとしていると味方の負傷兵の列に出くわす。その中には同じ部隊に居たのっぽの兵士ジムの姿もあった。ヘンリーは負傷兵達を羨ましがった。そして自分も負傷して赤い勇気のしるし(勇者の赤いバッヂ)が欲しいと思った。一方で同僚のジムは重傷で今にも倒れてしまう寸前だが、ここで倒れて味方の砲兵隊にひき殺されてしまうことだけが不安だと言っていた。そしてジムは負傷の列を離れ、草原を走り丘の方へ昇っていくとその場所で人目につかぬよう息絶えたのだった。
 その後ヘンリーは自分の部隊を見つけ合流し、同僚で仲の良かったウィルソンとも再会する。この後のヘンリーの戦場での働きには目を見張るものがあった。撤退する敵軍をなお追い、弾を打ち続けた。また突撃の際には戦死した味方の旗手に代わって旗を持ち常に前線に立ち続ける。ヘンリーのこの変化がジミーの死を見たからか一度逃亡した自責からなのか、あるいは将校から雑兵扱いされたことによるものなのかは分からない。しかしいずれにせよ彼は戦場での恐怖を克服し、その姿は味方全体を鼓舞し、上官にもその働きを認められたのであった。
 戦闘を終えた後、ヘンリーは戦友のウィルソンに実は一度逃げ出してしまったことを明かす。するとウィルソンも実は自分もそうだったのだと語った。戦争という悪魔の所業の最中でも、あるいはその終わりでも太陽は変わらず木々や野原にさんさんと金色の光を投げていた。ここ描写はスティーブン・クレインの原作とは改変がなされている。遠山純生氏は「二人の友情が堅固さを増したことをほのめかすと共に、カタルシスを「目に見える」かたちで描いた」秀逸な改変だとしている。遠山氏がその後にも書いているように、当時のハリウッドに特徴的な直線的ストーリーテリングよりも人物のムード・性格描写を重視する技法は同時代的には異質でかつ魅力的な描写である。戦争はやがて終わり、ヘンリーは再び平和な日常へと戻っていく。こうして英雄譚のページは閉じられた。
 しかしこの作品も『光あれ』と同じく、時勢に大きく翻弄された作品であった。本作は映画会社MGM が反戦的に映ることを懸念し、ヒューストン自身がそれまでで最高の出来と自負していたにも関わらず本来の120分の完成作を69分にカットして公開された。私が劇場で観ることのできたのもこの短縮版である。

今回は二作やろうと意気込んだが結局ここまで。最後まで振り返るまでにいつまでかかるのやら。前半はもう少し削るべきかもしれない。

参考資料 『Stranger MAGAZINE 007』2024年7月19日初版発行 Stranger

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