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「親ガチャ」ということば。



最近流行っていますよね、「親ガチャ」って言葉と、「冷笑系」ってことば。
個人的には・・・あんまり得意な言葉ではないです・・・。私は20代ですけど、私以下の年代において特にそういった主義が流行っているような気がしていて・・・。
1回しかない人生をどうして・・・そんな・・・スカして・・・過ごすのか・・・。
特に若い・・・10代の子・・・いろいろ事情がきっとあると思うんだと思います。頻繁なフレーズですけど、「同じ気持ちには完全になりきれない」から・・・。
というよりはもっと純粋に「冷笑系」の人たちの「どうしてそう思うのか?」の意見を直接聞いたことが無いので、同じ気持ちにもなりえていないというのが現状なんですけれど・・・。希望・・・って自分で見つけるもので・・・あー・・・いくつかタブに分けて話したい!と思ってる内容です。

〇そもそも「親ガチャ」について

『親ガチャは生まれ持った容姿や能力、家庭環境によって人生が大きく左右されるという認識にたち、「生まれてくる子供は親を選べない」ことをスマホゲームの「ガチャ」にたとえた日本のインターネットスラングのことを指す』(Wikipedia より引用)
Wikipediaは正確なソースと言われると「?」と考えなければならないのは分かるのですが・・・、読んでみた限りでは自己の認識と相違はなかったので、引用させていただきました。間違っていたら改めて作り直します、記事を。
これ、まず第一に思ったことが、親ガチャって「主観」がめちゃくちゃ混じりませんか?
「親ガチャ」って個々人が思うレア度N、R、SR、SSR、全部違いません?
例えばですよ、
Aさんがそういうことを考えたと例に挙げたとき・・・例えば、「その日の御飯さえ食べさせてくれる親がいればSSR」って思う人かもしれませんよね。
じゃあBさんは・・・「大学進学まで行かせてくれれば、何なら大学進学において田舎出身だけどその田舎で最も評判のいい塾に通える」事が親ガチャSRって思う人もいるかもしれない。
逆にCさんは上記のAさんはN以下、BさんはR程度で・・・「都内の持ち家に生まれ、中高進学校に通いながら、SAPIXに通いつつ、都内で青春を謳歌して且つ有名都内大学に進学する、までをサポートしてくれる親」をSSRだと思うかもしれない。
これって、想像できません?言い換えてしまえば、人によって「アタリ」「ハズレ」の基準が違う。それぞれのレア度の違いがみんな統一されてないんですよ。だから・・・「ん?」ってなることがあるんです。
だから〇さんにとってみれば親ガチャが「あたり」でも、×さんにとっては「ハズレ」だったりする。これって・・・凄い難しい問題というか・・・、「主観」ありきで基準が変わるので、同じ「親ガチャ」という言葉でネガティブな感情を訴えてしまうのはちょっと違うかも、と思うところがあります。
このような論調を何故書いたかというと、Twitterにおいて「超進学校に通っていた子は、有名中高一貫校に進学し、SAPIX等にも通える都内に生まれることをSSRだと思い、地方で有名中高一貫校が無く、SAPIXなどの有名塾もない所で地方塾に通い、地元の進学校に進学する子をN、親ガチャハズレと思っている」っていうツイートを見て、「そういう見方もあるのか」と思ったからです。正直な話、地方進学校に進学してもまあトップ層は東大京大国立医学部だったり早慶医学部等の進学者はゼロではないと思います。
そういう意味から見てみると・・・「親ガチャ」って「主観」だなあ・・・?って思います。
そして、「親ガチャ」という言葉を使う人は総じて「悪い意味」で使っているイメージが強くて。そもそもそういう発想しない人はいるし、「親ガチャ」という言葉自体そもそも知らないかもしれない。現状に満足しているわけですから・・・。
とにかく、人それぞれ「親ガチャ」のあたりはずれは「人による主観」が大きく関わってくると思うので、「うーん?」って思うのです。

〇「親ガチャ」という言葉の 一つのよりどころとしての言葉として(肯定的な意見です)。

「親ガチャ」という言葉について、擁護というか・・・、使用されるのも仕方がないのかな・・・と思うところがあります。そのことについてまず書きたい。
とかくまず日本において、無宗教というか・・・あんまり特定の「宗教」にどっぷりっておうちはあんまり多くないですよね。世界三大宗教とか・・・もあれば、いわゆる規模の小さい宗教を信仰しているご家庭もあると思います。
只往々にして無宗教の人が多いのかなと個人的に感じています。私自身も特に熱心に進行している宗教があるわけじゃあないし、うっすら周囲には神道としての「神様」がいるのかな?(八百万の神のような・・・)と思うくらいで。
一昔前、そういった日本においても例えば・・・うまくいかないことや・・・この世の理不尽において・・・「願掛け」のようなことをしていたのではないかと思います。今でも「風習」として残っていたりしますよね。「理不尽を何とか八百万の神に限らず、何か不思議な神様のようなもの」に何とかしてもらうよう「祈ること」によって「自身の理不尽」をコーピングする・・・様な事があったのかな?と。只ことリアルタイム現代2024年において、SNSの普及を筆頭としたインターネットの普及により、リアルタイムでだれかれかまわずつながることができるようになり、趣味とか好きなこと(スポーツなどを含む)が常に「最上位」の人が見えるようになったり・・・して強制井の中の蛙ではいられない世の中になっているところもあったりして。
見えない「何か」に祈るという文化が薄れ、一層他者との比較は強くなっている世の中のような気がします。そりゃあ・・・自分の人生を「理不尽でうまくいかないよな」って思う人も増えるよな、当然だよなって思って。
そこで自身のその「やるせなさ」とか、「人生のうまくいかなさ」をコーピングする目的で「親ガチャ」という言葉にすがっている部分もあるのかな、と思ったのです。
「自身で責任を取ると考えてしまうと、つまるところ人生がうまくいっていないのは自分が悪いという結論に帰着するので、結果的に病んでしまうから、どこか身近な対象にヘイトを擦り付けることで、自身のストレスコーピングを行う」という一種のメンタル面での本能的な防衛機能?によって出現した言葉なのかなあって思うところがあって。
あと、どうしてそこまで「コーピング」しなきゃならないか・・・って思うのは・・・私含めた20代以下、何なら氷河期世代の方々も含めるような40代以下の人たちは、生まれた当初から「好景気」ってのがまあなくて。ずーーーっと不景気、不景気、不景気、不景気と言われ続けた人生だったわけで。そりゃあ明るい未来を(アカルイミライヲー)なんて、希望持てませんよね。だから人生自体には「生まれた時代」が確かに影響すると思うので、そういった不遇の時代に生まれた我々は特に「そういったストレスコーピング」の需要が高いのではないかなあって思うのです。そこで生まれた言葉が「親ガチャ」。
だから、まあ時代故に生まれた言葉なんだろうなと思っています。
必要だからこそ生まれた言葉、だからこそおざなりに否定するべきものではないと思っています。無下に「親ガチャ」はクソwって否定すべきものではないという視点も持つことが大事だと思っています。私はそういった言語の専門家でもないし、ただの素人なので門外漢もいい所ですが・・・、ふっと思ったので、肯定的な意見も書きました。

〇「親ガチャ」て言葉のうまい使い方というか・・・コーピングの手段として

「人は配られたカードで戦うしかない」これってスヌーピーの作品の言葉ですよね?。これに対してTwitterでバズってた返答のツイートで、「配られた枚数が通常一人5枚とかだとして、5枚配られないやつもいるのよ」というツイート。これは確かに「なるほど」って思いました。でも・・・そこで声高に文句を言っても・・・現実は変わらない・・・。1枚しかなくても、それを切るしかない。そういった表現をするのは正しいかは分からないけれど・・・そうは言っても、文句を言っても、誰かが助けてくれるわけではありません。切り開くのは基本的には己の手しかないのです。だから・・・苦行だと思っても・・・辛いと思っても・・・戦わなければならないと思っているのです。もちろん、「親ガチャ」という言葉を使って、ストレスコーピングをすることは勿論ガンガン行っていいと思います。そこでうっぷんを晴らしながら、実際の活動とか行動に移すこと。限られたカードしかないことを嘆いたり文句を言うことはいいストレスコーピングになると思います。そのコーピングをしながら、行動すること、それが大事なのではないかなあ、って思います。

〇親ガチャの個人的なまとめ
「親ガチャ」という言葉が生まれたのは「必然」であると思います。時代背景的に仕方ないところがあるのかなって。只「主観」を介したものであるため、人によって基準は違うから、なかなか画一化するのは難しい。
でもこの世において「病まずに」生きるためには必要である言葉でもあると思う。「だからといって」、生まれを変えることはできないし、つらいと言っても何も自体は解決しない。コーピングの方法として「親ガチャ」という言葉を使うことは確かに一つの正解の手法だと思うけれど・・・「傷の舐めあい」をしても事態は前に進まない。だからこそストレスコーピングのひとつの手法として「親ガチャ」という言葉を使いコーピングするのは良いとして、そこでストレス発散したら、そこから現状と向き合い、自身の理想があるとすればそれに向かって進むのが良いのではないかなあ、って思います。あくまで個人的な意見ですけど・・・。無下に否定するべき言葉じゃあないと思うし、かといってその言葉に頼りすぎて何もかも自身の行動に移さないのも良くないと思っていて。メンタル面のコーピングは「親ガチャ」で解決しつつ、現実に回復したメンタルパワーを使って向き合っていくのがベストじゃないかな?って思います。
勿論、メンタル系疾患(ここでは大体・・・大うつ病や適応障害の患者さんを指します。新型うつ病は正直病気としてまだ認められていないので例外として・・・)に罹患されている場合はこの限りではないと思うし、普通に全人類にこの法則が当てはまるとは思っていません。だから・・・あくまで「参考」程度に思っていただければと・・・おもいます。あくまで「個人」のいち意見なので。

〇冷笑系って
「冷笑系」という言葉も流行ってますが・・・、文章的に長くなりそうなので、また別記事にして記録しようと思います。


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