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「自分は何者にもなれない?」「なりたい自分がある」「なりたいものが分からない」って言うこと。

「なりたいものがわからない」「なりたいものがあるけど無理だって思う」
いろいろ・・・こういった話はありますよね。
今回は・・・どっちかって言うと・・・「10代のころ」または・・・「かつてそういう思いをしたことがある」若い人・・・私と同年代位(20代?)あるいは・・・もうちょい上?くらいの人向け?世代のターゲッティングは分かりませんが・・・少なくとも当事者として自身がターゲットするのは・・・「10代」の多感な頃の人が読んでくれることを願って書く記事になります。いつだって遅くはないと思うけれどもね。
「Note」で10代の子とか読んでる人、いるんでしょうか?中学生の子とか・・・「高校生」の子とか。そういった子でこういった記事を果たして読んでくれる機会があるのか・・・、わかりかねるもんでもありますが・・・。


〇前提:精神が健康であることが条件だと思うこと。

「メンタル」、大事です。特に・・・日本は欧米諸国に比べ「精神科(以下メンタル科とやんわりな表現を用います)」的な分野が数十年くらい遅れているという話もあります。あとは国民性と言いますか・・・「我慢することが美徳」とされていると思うのです。だからこそ・・・「我慢して・・・我慢して・・・限界が来てしまう」。我慢することは必要な時が多いですが、我慢しすぎもよくないですよね、塩梅がとっても難しい・・・。
そのおかげか、「うつ病大国日本」なんて言われていますよね。でも最近は・・・「メンタル科」の先生が増えている傾向にあったり、「メンタルクリニック」という名前で精神的な疾患の方から・・・認知症、果ては更年期障害の方まで診るようになっています。そういった事もあり、徐々に「メンタルクリニック」に通院する患者さんとかも増えて来てるかな?とおもう所感です(自分は精神科医ではないので詳しい事は分かりかねるのですが・・・。)
これは決して、日本の人たちが「軟弱」になったわけじゃなくて・・・、「我慢してつぶれていた」人たちが病院に「通えるようになった」と解釈しています。生きていると・・・「生存バイアス」ってかかっちゃうもので、過去の人たちにじゃあ全くそういう人がいなかったかと言えばいたと思うし、自分で死んでしまうという選択肢を取ってしまう方たちもいたと思うんですよ。実際・・・ここ10年以上(コロナ禍を除き)、年間自殺者数は減少の一途をたどっていますし、一種の「セーフティネット」としての「メンタル科」なのかなって思うのです。
不景気とか・・・いろいろな理由で「先行き不安」な人生ですよね。ましてや流動性の高い時代の中を生きている我々・・・。一回しかない人生、2週目やっているわけでもないから自分の生活が今後どうなっていくとか予想はつかないことが当たり前で。そういった状況で「極限に」先のことや未来のことを考えると「病みます」。だから以下に書き連ねることは・・・、メンタルが自分で「ちょっとおかしいな」って思う人は今読むべきじゃないな、と思うのです。

メンタル問題、どこからが線引き?それも個人の主観と、個人の能力だって思っています。

〇「なりたいものなんて なくっていいじゃない」←?

んなわけは、ない!!!!!!!!!!!!!と思うんです。
声高に強めに言いたいくらいには。「ならなくていいよ」ってワードとか、そういった類に似た言葉が世間にはあふれていないかなと思っているのです。

歌とか・・・ポエムだったり・・・あとはSNSのバズりネタであったり・・・。
「あなたはあなたのままでいいの」って。いやそれは確かにそうだけれど・・・。
その歌を歌っている人、詩を書いてる人、「バズ」った人さえも・・・その人たちってすでに我々から何らかの「何者」と形容できる人たちじゃないですか?
その人たちがまだ何もなしえてない・・・と少なくとも自身では思っている人たちに「無理しなくていいよ」とか、「なにものにならなくてもいいんだよ」って説いて回るのは・・・違うと思うんです・・・。

甘い言葉か? 令和、バンドマンがそういうケースって増えた気がします。
夢を追うバンドって往々にして「泥臭い」って表現で敬遠されがちだったりして。

もちろん、勿論ですけどその人が「なにものにもならなくていい」って気持ちを自身で色々な気持ちを解釈していろんな経験や意見を咀嚼して飲み込んだうえで持っているのであれば・・・、あくまで自身がひねり出した結果「なにものにもならなくていい」って「答え」を出しているのであれば・・・それはイイと思うのです。

人って・・・私も例外でなく・・・「楽な方へ」流されていきやすいんだと思うのです。だから「なにものにもならなくていいよ」ってのは・・・「ラク」になるための麻薬のような言葉ではないかと・・・思うのです。

〇選択肢を奪っちゃいけないよねって思うこと。

実のところ選択肢は本人の意識と解釈、咀嚼次第だと思っています。

「なにかになりたい」って思う人もいると思います。「何になりたいかわからない」って思う人もいると思います。「何にもなりたくない・・・」って人もいるかも。「なりたいものはあるけど自分じゃ無理だと思う」って人もいますよね。
「なにかになりたい」って明確に定まっている人は・・・そのままひたむきにやれるだけ「自分が納得できるまで」やればいいと思うのです。「無理だっ」って思ったら、諦めたっていいんですよ。でも・・・それを決めるのは「自分」です。他人じゃないと思う。自己で決定すべき!と思うのです。もちろん取り巻く環境とかで「物理的に」夢を追えなくなる可能性もあります。往々にして。だから・・・そういった制約も含めつつ・・・出来る限りで本人が諦めようとしなければ「続けてもいいのではないか」と思うのです。
上述した「物理的に」夢を追えなくなるってのは、例えば色々な条件で「期間」という縛りがあるとしたら、その期間に後悔の無いよう思いっきり全力でやってみるってのが良いのかもしれません。どこまで本気でやるのかは・・・その人次第だと思います。叶えたいレベルによる?のかも。ホントに寝食全部無視して一日中それに取り組むレベルでやり続けられるか、そこまでじゃあないか、とか。なりたいものになるってのは早い方が良いのは往々にして確実にそう言えると思っているので、だらだらと長ーくいつかかなえようって思っているくらい・・・程度だとモチベーションも上がりきらず、難しい部分もあるんじゃないかなあって思うのです。

なりたい夢があるのに手がつかないんだよねエ・・・て、それはその程度ってことなんじゃないの?って思うのです。本当に本当に本当に心の底から・・・成りたいと思うならば・・・全てを犠牲にしてもなげうっても、なろうってするべきなのがいいんじゃあないの?って個人的には思うのです。私はそうした、そうしてしまったので、そう考えるのが「正しい」と思ってしまうのが良くないところではあるんですが・・・。「なりたいものがある」ならそれ相応の覚悟、ガンぎまった覚悟がいるよなって思うのです。

「何になりたいかわからない」って人は・・・「なにか」が見つかるまで生きても良いんじゃないかなって思うのです。もちろん、上述したように「ないからこそ」自分の中でいろいろ考えて・・・咀嚼して噛み砕いて折り合いつけて・・・「なにものにもならない」という選択肢を取るのであれば、それもまた一つ正解だと思います。「探したい」と思うなら・・・、いろいろ視野を広げてみるのが良いんじゃないか・・・、と思うのです。意外とそこらへんに見てないだけで経験値の塊ってゴロゴロしてるもんだと思うのです。いろいろ普段からできることってあったり・・・すると思います。でもこの「探す」行為ってすごい抽象的な言い方をしましたが、これめちゃくちゃエネルギーがいる行為かも。

ゲームの画面だとステータスバーが可視化されますけど、現実ではされませんね。
でも経験値はそこら辺にいっぱい落ちてると思います。
スライム程度から・・・魔王レベルまでそりゃあもちろん・・・。

でも、単なる雑用から・・・人がやりたがらないことまで、基本的に「考え方」によって経験値って獲得できるんですよ。例えば朝の掃除を任されたとしたら、それが雑用であろうとなんだろうと「早起き」の練習であったり生活リズムを整えるためのルーチンと考え直せばそれは経験値になると思うのです。
人前で話さなければならないプレゼンを任されたとき、それを準備することでプレゼン作成の能力が身につきますよね。あとは上司に添削してもらったり、どこが悪いのかフィードバックを貰ったり、自分でどこが悪かったかを自省することもできます。実際人前に立って発表する事って疲れるし、緊張しますけど、それを超えれば、次の人前に立つのが楽になるわけで。
それはとんでもなく大きな経験値だし、大きなスキルになるよなーって思うのです。そこらに落ちてる雑用みたいな我々が普段行うアクション全てすべてに、とらえ方によって「経験値」が見いだせると思っているのです。何事も視点が大事だなーって個人的に思ってるのはそこですね。費用対効果とかも考えなければならない年齢ってのは30代以降なんじゃないかって思うのです。20代はホントそこらに落ちてるゴミみたいな行動、雑用でも経験値見出して吸い出すこと、それこそが進歩を見出す一つの手段になりうると思っています。

Sic pervis magna。偉業を成すのも小さな一歩から。その通りだって思います。

Un chartedシリーズでずっと言われ続けるセリフです。
偉業を成すのも小さな一歩から。その通りだって心の底から思います。
Greatness from small beginnings.

「なんにもなりたくない」って人は・・・いると思います。でもちょっとだけ、ちょっとだけ自分の中を深掘りしてみてもいいかも?と思うのです。「なにもしたくない」って感じを突き詰めていくと・・・普通に突き詰めたら、「生きるのが嫌」ってなりませんか。でもまあ・・・人間である以上基本的な本能的なプログラムとして「生きるのが嫌」ってなることはまあ基本は無いんです。
こういう気持ちがちょっとでも「ある人」はメンタル的に病院案件かも。

うーん…。

いやちょっと極端かもしれません・・・、例えるなら・・・なんにもなりたくないけど、ご飯は食べていたいとか睡眠はしっかりとりたいとか、そういった「やりたいこと」もないでしょうか。「なんにもなりたくないけど生きてはいたいし美味しいものも食べたいよ」っていう人は多いのではないでしょうか?
本当に「何もやりたくないし生きていたくない」ってのは本当の気持ちですか?
本当に心底そう思っているのであれば今すぐ病院の予約をしなきゃあならない状況かも・・・しれないです。今ってメンタルクリニックの初診予約って大変と聞きますし、今からでも予約入れましょう・・・と思うのです。
なんにもなりたくないけど、美味しいものは食べたいし死ぬほどずっと寝ていたい、お金の心配しないでそういうことをしたいって人は多いと思うのです。
そういう考えに行きつくかもしれないし、あるいは・・・翌々深掘りしてみたら、自分って~~したいなって気持ちがあるかもしれないってなるかもしれない。
好きなことがいくつか思い浮かぶかもしれません。まずは考えてみるのが第一歩なんだろうって思います。

でも、それでも「生きるのやめたい」って思うのであれば、病院の予約をしましょう。私も・・・一応本職ですので(精神科ではないですが)、プロのメンタルの先生に診てもらうのが一番です。

なりたいものがあるけど自分には無理だって思うって方・・・いらっしゃると思うのです。物事を俯瞰的に見れてるというか、いい意味で現実を見ることができているのだと、個人的には思います。凄いスキルです。自分、そういった事はてんでできなかったタイプの人間だったので俯瞰的に現実を見据えることができるのはとんでもなく凄い事だと思っていて。
その俯瞰的に見たうえで、「どうするべきか」を自身の心に問うた時・・・、しっかり自分と向き合って見据えて考えて・・・咀嚼して本当に粉微塵になるくらいまで噛み砕いて向き合って、それで「やっぱり進もう」とするか、「諦めよう」って思うか。そこまで思案に思案を重ねて考えて突き詰めて、自身で納得することができればそれがベストなのかな?と思うのです。只自分はこういった俯瞰的な見方が出来なかったと重ねて申し上げる形になるのですが・・・、できなかったがゆえに「どうするべきなのか」が最適解かすっと浮かばないのです。こと本邦においては、難易度という問題をかなぐり捨てるという前提であれば、「なりたいものになる」という事に不可能は無いと思います。あくまで「可能性はゼロじゃない」ってことです。例えばもっと簡単にすっとステップをのぼっていける人もいると思います。例を挙げると、背景にいろんな要素(家柄、コネ、お金・・・受けられる社会的恩恵とか)が混じってきたりして、人によって本当に難易度は雲泥の差レベルで出ることもあるかなあっと思うのです。
ただ、なることができる可能性は「ゼロ」じゃあないわけで・・・。
でもただ、本当に無理だよって言うケースもあると思うのです(例えばパイロットになりたいとして、極度の近視があると無理とか)。そういった極稀なケースを除いて・・・。
基本「なりたいもの」になることって成功率はゼロにはできないよねって思うのです。だから・・・そこまでの「リスク」を背負ってまで「なりたい?」って今一度自分に問う事、それが大事なのかも?と思うのです。
可能性がもう全くゼロってことは殆どないから、自分の本質に自分で向き合って咀嚼して考えて・・・リスクと憧れを天秤にかけて、納得いくまで考えてみるのが良いのかなあって思うのです。

〇好きな事を「なりたいものにすること」っていい事?

これ、人によって意見滅茶苦茶分かれますよね。好きなことを仕事にするなって人と、好きなことを仕事にしろって言う人。

二分されると思うのです。もちろんこの二分の中には「割り切れてる人」だったり「割り切れない人」だったりがいて、きれいに分かれるというよりは濃淡別れているような感じがしますが・・・。

これ、結局その人の「本質」の一部分に関係があるのかなと思っていて・・・。いわゆる適性って言うやつです。
例えば・・・。
Aさんは好きなことを例えば仕事にしたら、その好きなことが嫌いになった。
Bさんは好きなことを仕事にしたら・・・むしろ変わらずモチベーションを維持できてガッツリ取り組めるようになった。

もちろんこのようにきれいに二分できるとは思っていなくて、さっきのように濃淡ある感じに分かれると思うのです。
でもその当人がどういう適性を持っているかは「なってみないとわからない」のが本当だと思うのです。

だから・・・人に「~~したほうがいい」って言われたとき。例えば先人にそういわれたりアドバイスされたとき(特にTwitterでバズったツイートとか)。
好きなことを仕事にするのはやめた方が良いって言う人と好きな事こそ仕事にした方が良いって言う人、どちらの意見も聞いたうえで「自分が決める」のが良いのだと思っています。

だってやってみないと分からないから・・・。その言われた人の適性は自分でさえもはっきり分からない部分があると思います。

だからこそ、自分が納得するのが一番いい事だと思うのです。自分が納得した選択肢が一番、良いのだと思うのです。

もちろん人の意見を鵜呑みにするのではなく・・・自分で噛み砕いて咀嚼して解釈する事を前提としてです。

結局、やってみないとわかんないよって話になりますね。この件については・・・。

〇終わりに

思うこととして・・・一番大事なのは人からもらったアドバイスとか意見とかを例えば、食事だとするなら一度それを口に含み、食べて消化したうえでそれが本当に自分にとって「良いモノか」を自分で考え、栄養として吸収するかどうかを決めること、つまり取捨選択をするのが大事なのかなと思うのです。そのうえで、それを踏まえたうえで物事を決めていくことこそが、自分の心を豊かにする最も大事な事なんじゃあないかなあって思うのです。

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