しん次元!なしんちゃんを見てきた

 久しぶりの投稿。
 クレヨンしんちゃんの映画の最新作を見てきて、感想をつらつらとFilmarksに書いていたらだんだんと思想強めになってしまったので、こりゃいかんとこちらに残すことにした。ちなみにクレしん映画は全作追ってるほどのマニアではないが、そこそこ好きだ。

では『しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』ネタバレ有で感想をつらつらと書きます。


 まず今作の予告段階から話題となっていた3DCGについて。当初私はやはり不安を感じていた。しんちゃんはあの絵のタッチあってこそだろうと思っていた。しかしいざ見てみるとわりとすぐ慣れるし、CGだからこそできる映像表現もあるので良かった。ただ胸やお尻が若干生々しい。
 そして今回のゲスト声優芸人は私の好きな空気階段。よくある芸人のチョイ役ではなくがっつりストーリーに絡んでいて驚く。贔屓目抜きでもうまいと思う。
 見た環境も良かった。夏休みの朝の回、家族連れがたくさんいて、しかし混んでいるほどではないくらいの劇場で鑑賞したが、クレしんはやはり子どもたちの笑い声がある中で見てこそだよな。パンパンの中でさらに強く笑い声を感じるのも楽しそうだが混んでる劇場は嫌いなのでちょうど良かった。
 あとエンドロール、良い。ただ見るところがいっぱいで大変。




………とまあ、内容には触れずに書いてきたわけだが、そろそろ触れますか。SNSでも色々な意見が飛び交っていましたね。ここからガンガンネタバレ。






 結論から言うと、と最初に自分が賛否どちらなのかを言いたいところだが、残念ながらどっちつかずでいる。どちらかといえば否。曖昧だなぁ。

 今回の敵となる非理谷について。もうちょい可哀想感を出してもいいのでは?と思った。いや十分可哀想ではあるのだが、やきとり泥棒とかいる?(でもこいつ他人のやきとり勝手に食ってるしな……)とよぎる。倒れて差し出された手は払いのけるのにやきとりは勝手に食べるんですね。それほど世の中を憎み追い込まれているということを伝えたいのだろうが、最初は完全に弱い立場であったほうが今回のテーマ的にも良い気がする。
 そのテーマについて大雑把に言えば「たとえどんなに社会がクソであっても未来に向かって前向きに生きよう!」ということなのだろうけど、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を意識しているのかな?ひろしの足の臭いがカギとなるのも一緒だし。
 ちょうど少し前に、大人になって初めてオトナ帝国を見返した。名作と言われるだけあり素晴らしい作品だった。このシーン好きだった!今見ても面白い!と懐かしくなり皮肉にも子どもに戻りたくなったのだが、そこでふと思った。「本当に未来に生きることを選んでよいのか?」と。今の日本で生きていると到底未来に希望なんて持てない。もちろんそれでも生きていくしかないのだからこの映画のテーマは素晴らしいし、好きなことには変わりない。しかし少しモヤモヤしてしまった。
 オトナ帝国ではひろしが「夢や希望に溢れワクワクしていた子どもから、毎日変わり映えのないありふれた生活を送る大人になったとしても、その生活にだって幸せはあるんだよ」と敵に諭す。そして大人たちは過去に囚われることをやめ、未来に向かって生きていくことを選ぶ。モヤモヤしたとはいえ、それは今の日本が悪すぎるからで、作品自体は希望が感じられる良いラストだ。
 最新作でも似たようなメッセージが込められていたのだが、そのモヤモヤがより強く感じられたのは、作品の描き方の問題か、それとも日本がオトナ帝国のときよりもより終焉に近づいているからか。
 エスパーの力を手に入れて暴走した非理谷に対して、ひろしが「確かに未来は不安なこともあるけれど、頑張ればなんとかなる」的なことを言う。いや、これは非理谷に対してだけではなく終始「お先真っ暗」と言われ続けて不安になったしんのすけ(観客)に伝えていたか。
 これだけ作品内で「この国に未来なんてない」と言われ続けて、それでも君の頑張り次第でどうとでもなるのだから「頑張れ」と言われても、果たして希望を与えられるか?公は機能していないので自助でどうにかしてください、と言っているようなもんだろ。それとも怠慢な政治家たちへ向けて作ったのか?それならなんとも皮肉が込められていて素晴らしいですね。そんなもの『クレヨンしんちゃん』でやるな。あくまで子ども向け映画なのに、題材が子ども向けじゃなさすぎる。今までも大人向けと言われる作品はいくつかあったが、その中には希望や救いや感動があったと思う。今回のは子どもに希望が与えられる映画とは到底思えない。というかそもそも伝わってるのかな?
 怪物となった非理谷に吸い込まれたしんのすけは過去の彼と対面し、両親共に忙しく家ではひとりぼっちで同級生からはいじめられている彼の仲間となり、救っていく。過去改変か。ずるいなぁと思っちゃった。どんなに孤独に感じても仲間はいるよ、ということなのかもしれないけれど、確かに孤独で辛い思いをしてきた本当の彼自身は救われてはいないのでは?
 また他のクレしん映画を出してしまうが、私は『クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃』での、過去のトラウマとの向き合い方がたまらなく好きだ。決して忘れたり記憶を書き換えたりしない。向き合い受け入れる。これを5歳の少女にやらせてしまうのだから大したものだ。実際に防衛本能で記憶が変わってしまうことはあるようだが、それが悪いと言っているのではなく、あくまでフィクションの中での描き方の話だ。
 今寂しい思いをしている子どもたちには、はたしてしんのすけのような存在が現れるだろうか。この映画自体が非理谷にとってのしんのすけとなってくれればよいが、そこまでの魅力があるかは疑問だ。
 ラスト、人間に戻った非理谷はこれからどうすればいいか分からない、と言う。ひろしの答えは、「誰かのために頑張ってみろ」(オトナ帝国では「家族のいる幸せ」としていたところを「誰か」と変えたのは、アップデートされていると思う)。しかし非理谷の両親は離婚し今もおそらく親子関係は良くない、友達も恋人も多分いない、推しのアイドルは結婚・引退。今のところ「仲間」と呼べるのは記憶改竄で手に入れたしんのすけとその家族のみ。これで誰かのためにねぇ。前向きに生きれば「
仲間」は増えていくだろうからねぇ。多分立てこもり犯として逮捕されるけど頑張ってねぇ。と見てしまう自分の荒み具合も嫌になる。

 ここまで「ほな否やないかい。否で決まりよ」と内海さんが出てきそうなほど否の意見ばかり並べてしまったが、それでも。
 ひろしの言うことが薄っぺらい綺麗事に見えてしまったのは事実。しかしどんなにお先真っ暗であっても生きていくしかないので、綺麗事を並べるしかないのも事実。家族団らんや誰かからの応援に飢えていた非理谷が、野原一家に励まされ、一緒に手巻き寿司パーティーをすることで救われたのも事実。だから今作を頭ごなしに否定する気はない。
 SNSで見たのだが、ひろしの説教がオトナ帝国のときほど心に響かないのは、オトナ帝国のときには一般市民代表だったひろしが、現在では「勝ち組」となってしまったことが原因と挙げられていた。それが今の日本の現状。悲しすぎる。根本的な解決は政治を変えることですね。マジ政治家頼むよ。みんなも選挙に行こう。名目上は日本を良くするために頑張っている政治家たちがこの作品を見てどう思うのかは気になる。

 ところで未来に絶望した若者、ひろしと5歳しか違わないのか。みさえなんて年下。え、みさえ29歳?自分と同世代で泣いちゃった。


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