ピクルスの瓶の蓋
固すぎて開かない。素手で格闘していると手首の腱が切れそうになる。手首の肉を尺骨が突き破って飛び出しそうになる。子供のころ見たホラー映画でそういうのがあった。身体のコントロールを奪われた人間が陸上トラックを走らされつづけた結果、脚の骨が折れて肉を突き破る。ともあれマイナスドライバーさえあれば、折れた骨が肉を突き破る心配も要らない。瓶と蓋の隙間にドライバーの先っちょを差し込んでほんの少しひねってやれば、瓶のなかにシュッと空気が入り、怖ろしいほど簡単に開く。いままでの格闘はなんだったのかと。嫌でもピクルスの瓶の蓋に人生を見出す。これは知識の大切さを説く寓喩かもしれない。下等なサルにマイナスドライバーを与えても、ピクルスの瓶の蓋を開けることはできない(下等であっても力の強いサルなら素手で開けてしまうかもしれないが)。開け方を知らなければどうしようもないし、開け方さえ知っていればマイナスドライバーのサブスティテュートを探してくることもできる。一方でマイナスドライバーとは生まれ持った才能や家庭環境、親ガチャのメタファーでもあり、多くの場合はそのいずれかである。どれも努力によって左右できる幅がゼロまたは限りなくゼロに近い値をとる。このような世界におけるマイナスドライバーやその代用品は、常に誰かの占有物である。あなたがどれだけ死に物狂いで努力したところで、才能や環境に恵まれた人は嘲笑うかのようにあなたの目標を軽々と達成してしまう。彼らはピクルスの瓶の蓋を開けるためのマイナスドライバーを常に持っているが、あなたはそれを持たず、手に入れる手段もないので、永遠に素手で瓶の蓋と格闘しつづけることになる。でなければ開けるのを諦めるしかない。自分の力で開けられる瓶の蓋とそうでない蓋があって、自分の力では開けられない蓋でも、他の人は簡単に開けてしまうことがある。それはマイナスドライバーという不正行為に近い道具を用いているからではないかと考え、it's unfair を訴えデモに参加したりするだろう。そのような道具に頼らず、いままで開けることのできなかった瓶の蓋を開けられるようになるのは立派なことだが、最終的には虚無主義に飲まれて何もかもがどうでもよくなる。自分は瓶の蓋さえ開けられない最底辺の存在であるという事実に支配され、周囲からは、そういうネガティブで生産性のないことをやたらめったら言いたがるペシミスティックな人というレッテルを貼られる。それでも開封作業を中止するわけにはいかず、そのことに夢中になるあまり、開くころには中身がすっかり腐っていることもある。はじめから空っぽの瓶の蓋を開けようとしているときさえある。開封後はお早めにお召し上がりくださいという注意書きの文言を無視して放ったらかしたために脳味噌もろとも木っ端微塵に爆散することも、この世界ではざらにある。そんなとき、瓶の蓋を開けようと格闘してきたあの青春の日々はあなたにとって決して無駄にはならない、経験は宝である、などと、無意味な綺麗事で慰めようとする輩が出現する。そういう人間の言葉を真に受けるかどうかは問題ではない。問題なのは、そういう慰めを言う人間がすでに虚無主義に片足を突っ込んでいることにまったく気づいていない点にある。自らの過去が無駄なものだと決して認めるわけにいかないからこそ若者や後輩に対して無闇に与えてしまう、そのバカげた助言が、まさしく自らの過去を無駄なものであると半ば認めている証拠なのだ。自らの存在の価値のなさに薄々気づいていながら認めようとしないのは、それを認めた先に絶望と虚無と死しかないことを知っているからであり、結果を出せなかった自らの過去とその延長にある現在の自分という不確かな存在を無意識に否定しつつ、「決して無駄ではない」という宗教にどっぷり浸かることで忘却しようとしている。彼らの過去が本当に有益なものなら助言などされずとも人はそれに倣おうとする。追従する。大谷翔平がトミー・ジョン手術に失敗して鳴かず飛ばずの成績で日本に逃げ帰り引退することになっていたら、誰が彼の助言を真剣に聞こうと思うだろうか。そんな負け犬の助言より、世界で活躍するスポーツ選手に子どもたちは憧れるのである。それは瓶の蓋を開ける力への憧れであって、瓶の蓋を開けられなかったときの慰めを求めているわけではない。そんな慰めにばかり浸って何もしようとしない人間の成れの果てが私であり、生きている価値すらない最底辺の存在でもあるのだ。生きていれば瓶の蓋を開けられないときのほうが多いだのなんだの、くっだらねえ説教ばっかり垂れて、実践的主観としての責務を何一つ果たそうとしない主人公、それが私なのかもしれない。才能や環境に比べて知識は努力によって左右できる幅が大きいが、知識を極めようとすれば、好条件な才能や環境といったファクターは不可欠であり、大部分の知識はそれらに附随して得られるものである。グノーシスから愚脳死す。人はセンチメンタリズムに毒され、努力の価値を高く見積もりがちだが、結果に結びつくかない努力は無論、結果に結びついた努力も本人が思うほどの価値はない。重要なのは瓶の蓋を開けることができたという結果であり、そのために半時間格闘しようとマイナスドライバーを用いて秒殺しようと同じことである。瓶の蓋を開けるのに半時間も要するような努力はむしろリスクでしかない。たまたま運がよかったから蓋が開いただけ、という見方もできる。蓋のほうが好意で開いてくれただけ、という見方もできる。そうなるとむしろ、その種の努力、絶対に諦めない強い気持ちなどといった精神性はマイナス評価になり得る。早々に損切りをして、身の丈に合った瓶の蓋を開けることに専念するほうがリスクも無駄も少なく済む。それができない人間は遅かれ早かれ脳味噌もろとも宇宙の彼方に吹っ飛ばされて死ぬことになる。
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