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無事では済まない

晩春の生ぬるい潮風に吹かれて、仕事の合間に立ち寄った漁港の建物は、柱に屋根を乗っけただけの簡素なつくりで、その打ち捨てられたアッタロスの柱廊のような空間に、現職の総理大臣の面を一目見ようと地元の漁民がたくさんあつまっていた。私もその一人だった。黒塗りのセダンで、優雅に、颯爽とあらわれた内閣総理大臣は、多くの護衛に囲まれていた。護衛たちはまるでイタリア人のように油性ポマードで髪をがちがちに固め、全員が黒いスーツ姿で黒のネクタイを締めていた。首相は現場の与党関係者と親しげに握手をしたり、我々に向かって愛想よく手を振ったりしていた。こんな不潔で寂れた田舎の漁港にはたとえ選挙の応援であっても訪れたくはない。どいつもこいつもみすぼらしい格好をした貧乏人ばかりじゃないか。そんな軽蔑に満ち満ちた内面を押し殺すように、首相は、表面上はニコニコと笑顔を絶やさなかった。やにわに私の近くにいた男が筒状の金属っぽい謎の物体を、首相のいるほうへ放り投げた。毛むくじゃらの猿の投げた大腿骨が宇宙船にクロスフェードするキューブリックの映画を彷彿させる。私の位置からはその物体がどこに落ちてどうなったのかまでは見えなかった。いったい何を投げたのか定かでなかったが、何かを投げたことだけは確かだった。そしてそれは、何らかの悪意や敵意をこめて投げられたものであることは察せられた。決して花束やラブレターではない。投げられてからしばらく経っても何も起こらなかったが、首相近辺の護衛、すなわち親衛隊とも呼べるような連中は、極度に慌てふためいている様子で、群衆から首相の身柄を遠ざけるべく絶叫していた。何かを投げた男は黒のパーカーを着て眼鏡をかけており、痩せていて、どこにでもいそうなふつうの学生風の若者だった。あまりにもふつうだったので、首相に向かって不審物を投擲するという異常行動が確認されるまで、私は彼の存在にまったく気がつかなかった。私のまわりには漁師の仲間や妻やその友人しかいなかった。そのときまではそう思っていた。しかし謎の物体を投げることによって、男は途轍もない存在感を発揮しはじめた。本来であればこのような公の場で発揮することが許されない類の存在感である。危険人物のオーラと言ってもよい。いったいこいつは何をやっているんだ。すでに群衆のほとんどは男のエゴに包摂されつつあり、その動向に全員釘付けになっていた。男はさきほどと同じような筒状の物体に、いままさにライターで火をつけようとしているところだった。それがパイプ爆弾であることを瞬時に見抜いた私は、導火線に火をつけるのを阻止するために捨て身で男に飛びかかった。爆弾が本物ならこの場所にいる大勢の人の生命が危ない。首相の生命も危ない。守らなければ、この国を! この美しい国を! 天皇陛下万歳! 妨害を受けて動揺した男は、手もとが狂い、導火線に着火するに至らぬままライターを落とした。私の英雄的行為につづいて、護衛や地元の警察官が次々と襲いかかり、男を取り押さえ制圧した。私は安堵し、あとはプロにまかせることにしてその場を離れた。死んだ魚の臭いのする濡れた地面に抑えつけられた男は、まったく抵抗せず、周囲の混乱ぶりに比して不気味とも言えるほど落ち着き払っていた。次の瞬間、大爆発が起きた。男が最初に投げ放った爆弾が遅れて爆発したのだ。近くにあったものが木っ端微塵に吹っ飛び、大勢の人が大怪我を負った。現場はイスラエル軍に空爆されたガザ地区のごとき惨状を呈した。建物のガラスが爆風で砕け散り、凄まじい火薬の匂いと黒煙、息が詰まりそうな瓦礫の埃がどこまでも舞っている。火のついた鮮やかな大漁旗がゆっくりと空から舞い落ちてくる。さきほどまで静かに停泊していた漁船までもが大きく左右に揺れている。女子供の悲鳴や泣き声が飛び交い、顔面から血を流した人、手足を失った人、下半身を失って腸の出た人がそのへんにごろごろ倒れ、意識を失ったり、のたうちまわって泣き叫んだりしている。まさに阿鼻叫喚。幸運にも無事だった人々は、この期に及んで接近回避型の葛藤を抱え、取り押さえられた男の顔を撮るためにわらわらと近づいてくる。離れるように警察官が必死で叫ぶ。護衛たちに上からのしかかられて身動きできない男は、うつ伏せになったまま、不敵な笑みを浮かべる。そのときだった。トースターのタイマーが終了を告げるチーンという軽やかな音につづき、二度目の爆発が起きた。さきほどの百倍以上の威力だ。男は散った。自爆したのだ。彼を取り押さえていた警察官やその場にいた漁民たちは、漁港もろとも、今度こそ完全に、木っ端微塵に吹っ飛び、全員海の藻屑となった。

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