本人登場
ガソリンを入れるためにスタンドに寄ったら、整備士らしき女性にタイヤを交換したほうがよいと勧めれたので、その場で前後左右すべて替えてもらうことにした。交換しているあいだ、事務所のようなところで待たされ、熱いコーヒーを提供された。さきほどの整備士らしき女性がやってきて、本日は当店でタイヤをご購入いただきありがとうございますと大きな声でお礼を言いはじめた。いったい何事かと思う間もなく、その女性はお礼に一曲歌いますと言ってマイクロフォンを握り、右に左に揺れはじめた。同時に、聞き覚えのあるイントロが大音量でスピーカーから流れてきた。ディストーションのかかったエレキギターによるピック・スクラッチ。輝きだしたぼくらを誰が止めることなどできるだろう。羽ばたきだした彼らを誰に止める権利があったのだろう。浜崎あゆみのboys & girlsだ。歌の上手さもさることながら、照明やパフォーマンスも本格的で、私はやむにやまれず手拍子をしていた。間奏に入ったところでまわりを見ると、観客は私しかいなかった。きっとこれは低俗なTV番組や迷惑系ユーチューバーの仕業だろうと想像し、隠し撮りを疑った。一般人の面前でいきなりプロ歌手がゲリラ熱唱する。たしかこんなことをするのはモニタリングとかいうバラエティ番組ではないか。スタジオにあつめられた有象無象が、不測の事態に戸惑ったり泣いたりする一般人の姿を観察して楽しみ、その一連をまた視聴者が見て楽しむ、そんな番組だ。もし本当にその番組なら、いま私の目の前で歌っているのは整備士に変装した浜崎あゆみ本人ということになる。私はよく目を凝らして見る。整備士用のジャンプスーツを着た女性は、かなり明るい色の茶髪で、たしかに一昔前のギャル・ファッションが似合いそうな雰囲気はある。断定はできない。浜崎あゆみにしては若すぎるのだ。彼女が一世を風靡したのは、かれこれ二十年近くも前のことである。ジャンプスーツを着た女性はどう見ても二十代である。ではやはり本人ではないのか。私は、ブームが去ったあとの浜崎あゆみについて何も知らない。知っていることといえば、おそらく死んでいないということくらいで、生きていることを知っているわけではない。死んだことを知らないということと、生きていることを知っているということは、厳密には異なる。死んだことを知らないからといって当人が生きているとは限らないし、とっくの昔に死んでいる可能性もある。つまり私は現在の浜崎あゆみについて何も知らないのである。二十年前と変わっていないのか、それとも変わり果ててしまったのか、本当に何も知らない。その答えは公安に拷問されても同じだ。そうこうしているうちに歌謡ショーは終わり、私は戸惑いながら拍手した。ジャンプスーツの女性は笑顔でお辞儀して去っていった。待てど暮らせど、カメラを持ったTVクルーが私のところに押し寄せて、状況を説明しにやってくることはなかった。ということは、このスタンドが独自にやっているサービスの一環だったのか。果たして本当にそうだろうか。私はもやもやした気持ちのままタイヤのお金と作業費を払い、スタンドをあとにした。新しいタイヤは快適で、なめらかで、静かだった。
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