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【創作】黒鹿毛の君

 瞳の色は黒か茶か、その様は水を湛えた静謐な泉。馬場の砂と青空を映した君の瞳は美しい。歩みを進めるたび、天鵞絨の皮毛は光を反射し、筋肉が複雑な陰影を作り出す。私はラチに近付き、君に声をかけようとするけれど、その姿の美しさに言葉を失う。と、少し離れた先でラチ沿いの草を食んでいた君が、すっとこちらに首を振り、私の方を向いた。

 ブヒィィィ、ブヒィィィ、とその姿に似つかわしくない不細工な声をあげたかと思うと、跳ねる様に駈歩に移り、君はこちら向かって走ってくる。その様が面白くて、笑いながらラチに近付くと、傍に寄った君の身体からは湿気と温もりを感じた。顔に突き出された鼻からは荒々しい息を感じ、口からは食んでいた青草の緑の香りがした。

 「お腹すいた?」「お家帰る?」と言いながら、引手を持ち上げると、君は激しく首を振りながら、荒々しく足踏みをする。跳ね上がった砂がバチバチとラチに当たって音を奏でるのが愉快だった。出入口に向かって歩き出すと、ラチの向こうで君も同じ方向に歩き出す。出入口の扉を開き、君の無口に引手を着ける。私の右側で君は少しじたばたじたばたして、急にスッと落ち着いた。

 「行くよ。」と、声をかけて歩き出す。初めてこうして一緒に歩いた時、大きな君が急に動いたり、跳ねたり、ものすごく怖かったのを覚えている。今でもそれは少しある。お互いに違う生き物同士だから、分らないことだらけだ。

 「ご飯食べたら、ブラシかけるからね。」君は聞いているのか聞いていないのか、ご飯のことで頭が一杯なのか。ただ私について歩いている。長く、美しく、可愛らしい耳がちらっと此方を向くだけだ。少し私は微笑んで、前を向く。

 美しい黒鹿毛の君と過ごした、ある晩夏のこと。


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