何度も挫折し這いつくばってたどり着いた僕の現在地
はじめまして。金刺大樹(かねざしたいき)と申します。
静岡県出身の23歳。97年組です。
最初にお伝えしますが、私には特筆すべき実績や才能はございません。自信もなけりゃ度胸もない、そんな自分にいつも嫌気がさし何度も殻に閉じこもろうとしました。そんな私を救ってくれた家族や友人がいるからこそ、今こうしてこのノートを書くことができています。
何度もいじめにあい、何度も地面を這いつくばりながらも、一歩一歩進んできた私の人生です。少し長いかもしれませんが、お付き合いください。
祝生誕ー小学校時代
1998.3.1 静岡県西伊豆町に生まれる。私の地元はとにかく田舎で、家の外に出れば川のせせらぎと鳥の鳴き声がするようなのどかなところです。
気が付いたころには肥満児でした。
小学1年生の時点でかなりの貫禄があり、6年生から”課長”のあだ名を授かりました。校内のエリートコース(?)に入ります。ちなみに3-4年生あたりで”社長”になります。世界最速で昇進しました。
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世界最速で昇進しました(2度目)
太っていましたがそれが原因でいじめられることはなく、1年の時に大相撲の力士にするべく砂場で稽古させられた位のかわいいものでした(この稽古は厳しく、泣きました)。特に不満もなく学校には通えていました。
ところが、5年生のある時から風向きが変わります。
ある理科の授業でカーストトップの子と違う答えを発表し、私が正解しました。発表自体が私にとって珍しい行動であったため、誇らしげに教室に帰っていました。その道中で友達のが私のもとに駆けよってきてこういうのです。
「たいきくん、ナルシストって言われてるよ。」
たまげました。案の定いじめにあいました。
どうしてこうなった?
自分は間違がったことをしたのか?
自分を疑い、うつむき加減で帰宅しました。
その日以降、私はすごく周りの目線を気にするようになってしましました。周りの反応が気になり常にうつむいていました。
いじめ自体は1か月もしないうちに終わっていましたが、このうつむき癖は残ってしまいます。
中学校時代
小学校に隣接していた地元の中学校に進学。
1.バスケ部入部
仲の良かった友達が入るからという理由でバスケ部に入部。全体練習のない休日にも自己練習に励むなど技術の向上に努めていましたし、NBA選手のポスターを部屋に貼るなどそれはそれはのめり込んでいました。
今思えば地区大会優勝したい!などのゴール設定があったわけではないですし、信頼できるコーチもいなかった(顧問はサッカー好き剃毛おじさんでした)ため、ひたすら自己流でシュートとドリブルを繰り返す闇雲な練習をしていました。目に見えた上達もしませんでした。
それでも自分で工夫して練習に取り組んだ時間は僕にとって財産です。このような自分で研究して取り組むのは今の性格にも通ずるものがあります。
中学2年の夏、人生2度目のいじめ
この時は私の汗が原因のようでした。私は人より良く汗をかくほうなのですが、その姿が気に食わなかったようです(いま代謝がいいと捉えてくれた方、愛しています)。
生理現象なのでどうすることもできず、また下を向く日が続きました。
教室にいるだけで嫌味を言われ、わざわざ近づいては菌扱いされ、部活の時には思いっきりボールを投げつけられる。そんな日々でした。小学生の時とは比べ物にならないほど具体的にいじめられ、流石にキツかったです。
思春期だったことあり親や先生には相談しておらず、一人で抱え込んでいました。私は絶対に一人で乗り越えようと謎の意地を張っていました。
秋冬シーズンには汗もかかなくなるので落ち着きました。
2.駅伝・ランニングとの出会い
バスケの練習の一環で走り込みをするようになり、体重はみるみる落ちていきました。周りよりも心肺機能に恵まれていたのか、持久走で上位に食い込むようになります。
中学を代表して陸上大会にも出場するようになり、本格的に長距離走の練習をするようになります。
長距離チームの子で私よりも速い子は何人もいたため速くなったことの嬉しさはあまりなかったですが、単純にランニングに楽しさに目覚めました。
いつの間にか練習やフォームに凝りだしていました。つま先からで着地するフォアフット走法なるものが話題になったり、山道を走るトレイルランニングが流行の兆しをを見せたりしていましたので、金刺少年も嬉々としてこれらに取り組みました。
駅伝シーズンにスポーツ貧血を患ってしまい出場することは叶いませんでしたが、自分の中の新たな当たり前にランニングが入ってきました。
修学旅行にて3度目のいじめ
2年の冬に修学旅行がありました。当時の私はいじめ(2度目)からも解放され自分のことを少しイケている側だと感じていました。奈良・京都の定番名所を回る楽しい修学旅行でしたが、私は一つのミスを犯します。
1日目の夜、枕投げをする流れになり私はテンションが上がっていました。夢にまでで見た修学旅行での枕投げ。私はとあるからかいやすい女子に向かって枕を投げました。
これがミスだった。投げられた女子はなにすんのよーといった感じでやり返してくると思っていたのです。予想に反して現実は違いました。
え、何?大樹キモくね?
こう言い放ったのです。私はいたたまれなくなりその女子から逃げ出してしました。部屋にいた男子友達のグループに混ざる振りをして私は震えていました。すごく嫌な予感がしながら、、、
明朝、予感は的中しました。班行動が再開するのですが明らかに一部女子からの威圧感が感じとれました。もともと積極的に会話する方ではないので間接的に目で殺してくるような視線が注がれていました。
いや、ここ京都なのよ。
帰りの電車です。なぜかイケてるグループの席に座る羽目になってしまった金刺。車中で繰り広げられていた会話の光景を私は今でも覚えています。会話に入ることもないので、寝るふりをしてどうにかやり過ごしていました。
話に聞き耳を立てると、どうやら誰かのあだ名を決めているようなのです。
ああでもないこうでもないと盛り上がっています。話には入れませんからうつむいているだけです。しかし途中から気づき始めました。
これ俺のあだ名決めてるんじゃないか?
こうなると気が気でありません。今まさに目の前で陰口で使われるあだ名が決められようとしているのです。最悪でした。意気消沈してうなだれていたその時、結論は出されました。
エロ豆
いやいやちょっと待てよ。どういうことか説明をしてくれ。
エロはいいんですよ。意味の取りようによってはセクシーとか大人っぽく魅力的だととることができます。豆が納得いかない。私のどこに豆の要素があるというのだ!豆はポジティブに受け取ることができない!
その日から私はエロ豆になってしまいました。
黒板に豆を模した私の似顔絵が書かれていて、漫画のような吹き出しで
「僕も一緒に遊びたいな」などと書かれていた日には発狂しそうでした。
※現在、エロ豆期間は終了しております。いじり禁止です。
高校時代
下田高校理数科に進学。選んだ決め手は陸上部のユニフォームカラーがカッコ良かったからです。
1.承認欲求の塊
私は初登校前に心に決めていたことがあります。高校デビューすることです。それまで鬼モテ鬼かっこいいスクールライフを送ろうととにかく意気込んでいたことを覚えています。
気合十分で臨んだクラスで初めての自己紹介。出席番号の前の子が異常にペン回しがうまくシャーペンを2本合体させた改造ペンなどを披露したことで空気は暖まりました。緊張しながら高校デビューを飾れるかどうかの命運を握るこの自己紹介で、金刺は見事に爆笑をかっさらいます。言いたい放題言い放ち、目の前には大笑いするクラスの面々。
めっちゃうれしい!
この感覚は新鮮でした。人を笑わせることがこんなにも気持ちいいなんて。この経験は私のユーモラスの部分を自覚するきっかけとなります。
2.陸上部編
部活は迷うことなく陸上部に入部します。下田高校陸上部は強いイメージがあり、白と青のジャージにも憧れていました。
入部早々足裏の怪我をしてしまい、練習できなくなります。当時の私は解剖学などもちろん知りませんから、ひたすら体幹トレーニングに時間を費やすようになります。一時は競歩に転向も考えるほど長引いてしまいましたが、冬には練習が再開できました。
2年時には長距離走のブロック長になりました。私より速い後輩がいる中でブロック長としてどんな在り方をするのか模索しました。私が小田割ったのは練習に対する姿勢です。
練習中に全力で走ることはもちろんですが、ウォーミングアップの体操では伝統的なものだけでなく独自で調べたものを実践したり(当時は動的ストレッチを熱心に行っていました)、練習後に必ず残ってダッシュや体幹トレーニングを毎日欠かさず行いました。
これには自信の競技力を上げたいというのもありましたし、自分で考えて練習に取り組んでほしいという思いからの行動でした。
この自主練習を続けた結果、秋の新人戦では1500mの自己記録を大幅に更新することができました。当時目標としていた記録を切ったことは自分にとって大きな自信となりました。
2日目の5000m。私はこの時の感覚を今でも覚えています。1500mの自己ベストで勢いづいた私は自分ができるやつだと言い聞かせ、スタートから先頭に立ちました。号砲とともにダッシュをかけ先頭に立ちます。
明らかなオーバーペースでしたが、初めてレース中に先頭に立ったという高揚感や場内のアナウンスで自分の名前が呼ばれたことの気持ちよさもあり、そのまま周回を重ねます。
このまま先頭で走り切りたい。そんな期待とは裏腹に、2000mを過ぎたころに私の足は止まり始めてしまいます。ずるずると後退していく中で、よくビデオで見ていた選手の映像が脳裏をよぎしました。
それは結果を出すべくして挑んだレースで、前半飛ばして先頭をひた走るものの、徐々に失速して最後は倒れこむようにしてゴールする選手の映像でした。
失速する私の頭にその映像が頭をよぎります。あのレースのようになるのではないか、と。いつの間にかその思考はどんどんとマイナスなものになっていきました。あのレースのようにすればいいと思いだしました。
その後は自分の中でその映像がレース中にもかかわらず美化されていき、
いつの間にかその後退していく選手を重ね合わせるようになっていました。
その時すでに私は自分自身に負け、競技において最も重要なことを忘れてしまっていたのです。無気力なままレースをただ続け、最後はその選手と同じように倒れこんでゴールしました。力を出し切ったわけでもないのに。
倒れこんだ直後、私の脳裏にある先輩の顔が浮かびました。1個上の先輩の陽介さんです。
陽介さんはけがによりマネージャーに転向されていた方でした。主に中長距離ブロックのサポートをしてくれていて、時には激しい劇も飛ばしながらも温かく見守ってくださる方でした。
練習中やレース中にはだれよりも大きい声で「たいきファイト!」と観衆の中でも伝わってくる声で応援してくださいました。競技力に精神的な側面もかなり含まれます。
レース後倒れこんだ僕に陽介さんの「大樹ファイト」の声が響きました。私は陽介さんの応援に反して自分との戦いに完敗していました。申し訳なさとともに涙が溢れました。涙に終わった新人戦でした。
その時の私の心境としては、周りの部員が慰めてくれることもあり、どこか主役になっている気分だったように感じます。
その後はこの日の涙を忘れずにと青春感のある言葉を胸に練習に励んでいた矢先、足首を負傷。県の駅伝大会でも納得のいく結果を出すことができずに、私は自信を完全に失ってしまいました。
練習後に自主練を欠かさなかった私はどこえやら、練習には全く参加せず朝食を食べた登校後に菓子パンをむさぼり、休み時間はかりんとうを食べるという大荒れ模様な生活をしていましたので、どんどんと太っていきました。
やさぐれる中もう一度練習しようと考え直した時もありましたが完全に塞ぎ込んでしまっていました。もう無理だ、僕にはできないとネガティブな思考が頭をめぐってました。
そんな僕はラブライブとの出会いで変わります。
ラブライブは学校の生徒だけで結成したスクールアイドル、”μ’s”(ミューズ)の活動を様々な展開で描いたものです。スクフェスという音ゲーは高2年のころからずっとやっていたのですが、アニメを見だしたのは冬になってからでした。このアニメが僕の心に再び火をともしてくれます。
1期第11話、グループの認知度が上がり勢いに乗るμ’sは母校の文化祭ライブに望みます。主人公、高坂穂乃果は気合のあまり雨の中階段ダッシュを決行し、ライブ当日に高熱を出しながらもステージに立ちます。大事な舞台で意識が朦朧とする中、ステージのセンターに立つ穂乃果。
そこで彼女はこんな自己暗示を唱えます。
大丈夫。やれる。できる。
今までもそうやってやってきた。
大丈夫。
このシーンを見た時、わたしは鳥肌が立ちました。
本当はいい状況ではないんですが、私にはとてもかっこよく映りました。穂乃果にこう思えるだけの積み上げてきた物があるからこそという背景が窺えるセリフだったためです。
かっこいい。私も胸を張って同じことを自分に対して思い、スタートラインに立ちたい。
そう思い、私は再び走り出しました。
体力は当然落ちていましたし、何よりブロック長にもかかわらず前述のような日々を続けていた私に部内の立ち位置はなく、信用を失っていました。3年になり受験も視野に入る中かなりきつかったですが、それでも走ることはやめませんでした。
インターハイの地方予選、私はスタートラインに立ちました。力不足なことはわかっており、当然敗退しました。まったく及びませんでした。
当時はどうして自分は途中あきらめてしまったんだと自分を呪いましたが、それでも今なら胸を張って言えることがあります。
あの期間、私は間違いなく私自身に勝ちました。
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完全な坊主にはせずフェードだったことが決勝に進めなかった原因なのではというのはここだけの話。
3.大学受験~受験は団体戦~
部活を引退し、本格的に受験勉強のスタートです。
陸上をやっていた時、競技力向上のために練習以外に栄養も重視していて個人的に色々調べたりしていました。パフォーマンスにどの程度影響していたのかは今となってはわかりませんが、その勉強そのものが楽しかったため、夢中になって勉強していました。
そんなある日、NHKのサラメシという番組で早稲田大学陸上部専属で管理栄養士をしていた福本さんの特集を見ました。
コック帽をかぶって大量のミートソースをかき混ぜながら笑う福本さんの姿に私はその姿に強く感動し、それこそテープが擦り切れるほど何度も見返しました。
中学時代にはテレ東の男子ごはんにはまっていたこともあり、料理男子は自分の中で超クールな存在。自然とスポーツ栄養士を目指すようになります。
第1志望は検索で1番上に出てきた県立広島大学健康科学科。当時全く勉強の習慣がなかった私は当然のようにE判定でした。担任からは見放されたような視線を感じていましたが、ぎゃふんといわせたる!と一念発起し猛勉強を開始します。
結果、合格。
私のようなものがよく塾にも通わず自己流で合格できたものです。ドキドキの合格発表は12時にスマホで目をゆっくりと開きながら確認しました。自分の番号を確認したとたんに家から飛び出し、おじいちゃんと抱き合って喜びました。
おじいちゃんと抱き合ったのは後にも先にもこれっきりです。
大学時代
入学後は何もかも初めて尽くしでした。初めての1人暮らし初めてのアルバイトなど。自分のしたいことだけしてきて、親にいかに助けられていたのかを実感し、とにかく何もかもが新鮮でした。
大学時代を振り返り、私の人生に大きく影響を与えたものがいくつかあります。
以下の経験が私の人生観に大きく影響を与えます。
ブルームーンカフェでのアルバイト
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ブルームーンカフェ(以下、ブルムン)です。
2年の冬に始めたブルムンでのバイトですが、それまで私は特別養護老人ホームでの調理補助のバイトしかしたことがありませんでした。年の近いスタッフ、アメリカンダイナーを模したかっこいい店内、最高でした。これが僕のしたかったバイトだ!初めての彼女もそこでできました。(最近別れました)
そこで私は店長の佐藤さんと出会うのですが、私は佐藤さんにとてつもなく影響を受けるようになります。
佐藤さんは絵にかいたようなイケてる男でした。
ロン毛をなびかせながらハーレーを乗りこなし、ハンバーガーにかける熱い思いを胸にキッチンに立つ彼の姿はまじでかっこよかった。私は自然と彼の口調や服装などを真似るようになります。
3年生の5月、私は大学の実習に嫌気がさし学校に行かなくなっていました。バイトには行き続けていましたが、大学に行けていない罪悪感やこの先どうするのかといった不安は常にあったように思います。
ある日のバイト終わり、このままバイトだけしていくわけにもいかないと思った私は佐藤さんに辞職の胸を伝えますが、そこから佐藤さんは私の話をよく聞いてくださいました。仕事終わりで疲れもある、早く帰って寝たいはずの深夜1時過ぎです。私の今後のことをご自身の経験や意見を踏まえてお話ししてくださいました。
その話の中で印象に残っているのは、「腹割って気軽に話せる友達がいるのか」という質問に対して、私が「います、多くはないですが」と答えたところ佐藤さんはあきれるようにこう答えました。
いやお前ね、友達は多くなくていいんだよ
私ははっとさせられました。当時の私は友達は多ければ多いほどいけている証拠だと思っていて、友達の少ないことがとてもコンプレックスでした。この言葉の字面通りの意味はもちろんですが、人付き合いの仕方や向き合い方について深く考えるきっかけとなりました。
大学へ復帰できたのもこの日この話のおかげでした。
明朝5時まで私に付き合ってくれた佐藤さんには今でも感謝しています。
間違いなく私の恩人です。
超宴~ヤッホーブルーイングのボランティア~
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ヤッホーブルーイング(以下、ヤッホー)は業界最大手のクラフトビールメーカーです。”よなよなエール”や”水曜日のネコ”などのエールビールのブランドを展開しています。私は大学3年の9月にあったヤッホー主催のイベントでボランティアすることになります。
大学復帰後、学内の実習に参加しながら進路について考えるようになしました。当時はとにかくビールが好きだったので、ビールメーカーに自然と興味がわくようになりました。中でも目を引いたのがヤッホーです。ユニークな社風が私の気をひきました。
ボランティア募集は終わっていたのですが、電話で直談判してどうにかボランティア枠に食い込むことに成功しました。
行くまでの間は名刺を作ったり、社員と会った時に印象を残すためのシュミレーションを繰り返したりしました。
ボランティア当日はキッチンカーの中に入って限定ビールをサーブしたり、列の誘導などを主に担当しました。なれない作業や大勢の人を案内することに四苦八苦しながらも楽しんで働くことができました。
作業中にも作成した名刺や印象に残るようなコミュニケーション、就活のつもりでボランティアには参加していて、入社したい意思を伝えて回りました。
この行動の結果、超宴を主催したスタッフからはあなたの行動と思いは必ず良い結果を生みますとのお言葉をいただき、人事部の方からは意識高めのワークショップへの参加のお誘いをいただきました。病院実習直前だったので、ワークショップには参加できずでしたが、思いのある行動は人を動かすということを学びました。
本チャンの就活では1次審査で落ちましたが、超宴や説明会などで感じた人を楽しませる精神は私に強く心に残っています。素晴らしい経験でした。
筋トレとの出会い
就活をする中で、もともとスポーツと栄養に興味があったことを思い出した私は、フィットネストレーナーの求人を探すようになります。筋トレを始めたのはそこがきっかけでトレーナーならば筋トレをせねばという感じでした。今から約2年前のことです。
大学構内にあるマシンが4つしかないジム(?)に通い、自己流でのトレーニングがスタートしました。はじめはがむしゃらに重りを持ち上げることしか考えていませんでしたが、習慣的にやるようになっていました。恐らく1人で没頭できるという要素が性格にあっていたのだと思います。
気づけばご飯食べながら筋トレ動画を見たり、3食から5食になったりと筋トレ中心の生活に変わっていきました。
AKIOさんの動画にもここで出会います。
やはりこの動画ですね。サムネにつられてみるとそこには信じられないくらいの行動量とエネルギッシュにたぎる男の姿がが詰め込まれていました。
このころはルーティン動画として楽しむくらいでしたので、まさかいずれインターンするようになるなんて予想もしていませんでした。
社会人1年目 GOLD`s GYM横須賀時代
ゴールドジム横須賀店にてジムトレーナーとして勤務。入社後の4,5月は緊急事態宣言により空白の時間となりましたが、宣言明けから営業再開し、私の社会人生活がスタートしました。
会員数1000人以上のジムで私の顔と名前を覚えてもらえるように毎日必死に挨拶して回りました。トレーナーに必要な知識を身に着けるために、勤務時間以外は解剖学の本を読んだり、セミナーに行ったりして少しでも知識を身に着けようと努力していました。
トレーナーとしてここで言えるような実績があるわけではないですが、僕を信じてトレーニング教えてください!と話しかけてくださる会員様や君は必ず成長するからいつか僕のとこに来てねと言ってくださる先輩がいて、僕は幸せでした。
思えば人から頼られるという経験はそれまでほとんどありませんでした。
あなたがいなくなったら誰に教わればいいの?
真剣にそう仰る会員様がいる。
ただただ嬉しかったです。
やってきたことが報われた様な気持ちでした。
一方、トレーナーとして勤務する中での知識・技術のなさ、サービスの甘さは常に感じていました。このままゴールドジムにいてはトレーナーとして何者かになることはできないかもしれない。キャリアアップのために転職を考えだしました。
パーソナルジムを中心に探している中で、GOAL-Bインターンの知らせが飛び込んできました。
こんなチャンス2度とない、行くしかない!
気づいたら応募が完了していたように覚えています。
その後数日たち、不採用の連絡が来ました。
やはりだめだったか、、と思いきや1か月ほどたったある日電話が来て、あなたとお話がしたいというではありませんか。
その後安慶名さんとの面接、のちにインターンの内定を頂きました。
すぐさま名古屋の住所を決め、引っ越し作業に取り掛かりました。その時はほんとに希望に満ち満ちていて、自分が画面で見てた人たちに会えること、そして一緒に働けることにワクワクしていました。
GOAL-Bインターン開始
12月14日、GOAL-Bインターンとして勤務が始まりました。
期待を胸にジムに向かう。
カウントダウンのある入り口を開けるとそこには長畑遼さんとインターン同期となる梅木の姿が。スタッフルームに案内されるとそこにはマンティ福原が。ついに始まったなという感じでした。
その日はたまたまAKIOさんやなぎらさんもいて、GOAL-Bをビンビンに感じる日となりました。(そんな日の写真がないのがある種僕らしい。)
しかし、勢い任せに来た私には明確なゴールがなく周りのGOAL-Bメンバーとの差にくらっていました。
僕はダメな奴だ
自分はGOAL-Bに向いてなかった。
そう思っている間に月日はどんどんと流れて行ってしまいました。
1月下旬です。まだくすぶっていた私は他のジムを探すようになっていました。そんな時この動画を見ました。
”人生は自由やね。なにしてもいい。”
この言葉が私を救いました。
現状の外側のゴールや経験の数が足りないことがインターンとして働いている現状においてとてもコンプレックスでしたが、そんなことはどうでもよくなりました。
ないなら、これから作ればいい。
それからは気が楽になり、自由に仕事が楽しめています。
プロレスに挑戦
子供の頃から僕はプロレスが好きです。
強くてカッコいいレスラーは僕の憧れでした。
小学校の文集で表彰されたのは、枕を相手のプロレスごっこについて。先生に朗読された時は恥ずかしてたまらなかったです。
身長や運動神経のなさを理由に、いつの日かプロレスは目指すものでなく見るものになっていました。
2021年、ぼくはプロレスラーになります。
なり方?知りません
始め方?知りません
それでもなる!必ずなれる!
リングに立つその日まで、僕はあきらめない。
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安慶名さんのナイスコーチにより決断できたこのプロレスへの挑戦。
名古屋にある地方団体にDMし、面接の日程が決まりました。
サイゼリアで行ったプロレス団体入門のための面接。
金髪大柄のプロレスラーを目の前にして汗をかきながら質問に回答していたのをよく覚えています。
それからというもの毎週火曜日にプロレスラーになるための練習がスタートしました。
まずは入門テスト。
レスラースクワット200回
腕立て30回5セット
超きつかった腹筋
レスラーブリッジ 120秒
なんとかこなし、練習生として入門できました。
受け身や基礎体力づくりを繰り返し練習。想像していた世界よりも練習内容は単調でしたが、試合の中での重要性は理解していたので直向きに続けていました。
所属団体の試合の運営の補助も経験し、レスラーになる臨場感がどんどんと湧いてきました。
でも、心の中で何か楽しみきれていない自分がいました。
レスラーになることがゴール設定になっており、そこから始まる何かは鮮明に思い描けてなかったという現状でした。
私はプロレスラーを目指すことをやめました。結果として3ヶ月ほどの練習生生活でしたが、子供の頃から夢に見ていた世界に飛び込む、まさにリングに上がる経験をできたことは本当に貴重な経験になりました。
プロレスラーを目指すことは多分もうないかな。
その辺の詳細はこちらの記事に詳細に記載してありますのでぜひ。
retio body design 森さんとの出会い
7月某日。GOAL-B名古屋ジムにretioの森さんがきてくださいました。
森さんは岡山にあるスポーツジムのretioで働かれている方です。
驚いたのはそのこだわりっぷりと行動力。GOAL-Bジムの内情でretioならこうするというアイデアが山のように出てきました。普段気づかない細かいところからびっくりするようなアイデアまで、本当にさまざまなアイデアが出てきました。
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その日からインターンとしてよりも一つ上の視座で取り込むようになりました。森さんのアイデアを即実行しました。
同い年でバチバチに結果を出している存在は刺激になりました。
店長就任
9月にGOAL-B名古屋ジムの店長に就任しました。
ついにきたということで意気込んでいました。この時、近隣ジムの移転もあり、多くの会員様にご入会頂きました。
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9月目標を達成し、月間MVPを受賞。
多くの人に助けられながら、コミットメントすることができました。
また、月初めには名古屋で知り合った彼女と別れました。
この悔しさが原動力だったのかもしれません。
翌10月にはジムの1周年記念感謝祭を主催。
ビジター無料の2日間、イベントには全国から大勢の方にお越しいただきました。
こんなにも多くの方に愛されるチーム、ジムがあるでしょうか?
僕はこのジム、この雰囲気が大好きです。
ぼくの今後
■フィジークチャンピオンになります
2021年は3回フィジークの大会にしましたが、全て予選落ちでした。悔しかったのですが、特に愛知フィジークは絶対決勝には残ると意気込んでいたのですごくショックだった。このままでは終わらない。必ず来年はてっぺん取ります。
■世界1ヘルシーなラッパーになります
楽曲制作に興味がある旨を安慶名さんと話していたところ、MCバトルへの出場を決めました。ラップの練習をするごとに楽曲に思いや伝えたいメッセージを載せることの素晴らしさに気づきました。酒もドラックもやらない、クラブに行くならジムに行け!みたいなラッパーになります。
■トレーニングジムGOAL-Bを日本中に
僕のいるGOAL−Bジムは本当に素晴らしいところで人の繋がりが波のように広がっていくところです。人との出会いは人生を変えますし、シンプルにジムにいる人が楽しそうにされているのことに幸せを感じます。僕は誰よりもこの空間にこだわりたいし、誰よりも関わっていきたいです。
さいごに
お読みいただきありがとうございました。
何かを感じ取ってくれていましたら幸いです。是非コメントご感想を私に教えてください。
インターンとしての10ヶ月。時間はかかりましたが、僕なりに歩みを止めずにこれました。これからはもっと多くの方をポジティブにできるよう行動を重ねていきます。
まずはUMB東京予選。1回戦で思いっきりフリースタイルして存在証明します!!俺は変人だ!!
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