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84円の勝利宣言

拝啓 初夏の候、貴店益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
平素は格別のご高配を賜り、心から感謝いたしております。

 さて、川越支店のみなさま、いかがお過ごしでしょうか。昨年は4か月間、大変お世話になりました。私は貴店を退職後、ITの会社に就職し、現在は客先常駐のITアシスタントとして活躍しております。まだ新米ではありますが、お客様先で毎日、笑顔で元気に働いております。光栄なことに、上司やお客様から、仕事ぶりを評価していただき、4月からは大きな仕事も任されるようになりました。働く仲間から信頼され、愛されながら日々過ごしており、とても幸せです。川越支店のみなさまが知る私からは、想像もつかないことと思いますが、以上が私の近況でございます。

 みなさまには、4月の入社から7月の退職までの短い期間ではありましたが、様々なことを教えていただきました。ありがとうございました。つきましては、みなさまの中でも、特にお世話になりました方々に、個別にお礼を申し上げたく、お手紙を差し上げた次第でございます。お読みいただければ光栄です。

 支店長 多古様
 多古様とは色々な思い出がございます。パワハラを相談した際に「それはすべて君の思い込みだ。騒ぎを起こしたことを謝りなさい」と一蹴したこと。これは忘れ難い場面です。
 しかし一番は、退職したい旨を電話で告げた時の「こんな非常識な辞め方は通用しない。絶対に認めないし、支店に来て直接言え」という脅し文句からおよそ3時間後、「支店には無理に来なくてもいい。退職手続きは全て郵送で承るし、私物も必要なら宅配で送る。有休も全て使って構わない」という変わり身の早さでしょうか。辞める間際、人事部の方々に、全てを包み隠さずお伝えしていたこと、またお世話になったことへの心からの本当のお礼を申し上げていたことを知ったのでしょう。そして自身の評価が下がることを危惧したのでしょう。圧巻でした。流石、若くして支店長になるだけありますね。たとえ、いつか出世して何人もを束ねるようになったとしても、多古様のようにだけはならないと、反面教師として心に刻ませていただきました。ありがとうございました。今後も精進してまいります。
 
 部長 風見様
 パワハラの相談に乗ってくださりありがとうございました。デリケートな問題なので、まずは部長だけに打ち明けさせてほしいと申し上げましたが、何故か翌日には支店全員がご存知でしたね。その裏切りのおかげで事が拗れ、パワハラ元より逆恨みされることとなりました。しかし今となっては、いい教訓となっておりますから、お気になさらないでください。その口の軽さが禍いを呼ばないことを祈っております。

 係長 井野様
 その節は大変お世話になりました。入社当時より、手下である部下を何人も連れて歩く井野様を警戒していた私は、井野様からすれば、自分になびかない新人として、気に食わない存在だったことと思います。口では「困ったらいつでも俺に相談して」と言いながら、自分の思い通りにならないときには後ろから椅子を蹴るという暴君ぶりには、当時より感嘆しておりました。しかしその暴君ぶりのおかげで退職への踏ん切りがつきましたので、とても感謝しております。いつまでも手下に囲まれた井の中の蛙でいられますよう、健闘をお祈りいたします。

 教育担当 小森様
 その節は大変お世話になりました。「どうして一度で覚えられないの?でもわからないなら聞いて」とため息をつく姿。かと思えば「わからないからって聞きに来ないで」と言い放つ姿。これらは今もなお私の脳裏に焼き付いています。素晴らしい教育方針でした。また、「ハラスメントだなんてとんでもない、私は真面目に教えている。私は何も悪くない」という主張を一貫して崩さず、支店長を納得させた手腕は、賞賛に値します。一度覚えたら絶対に忘れない能力や意志の強さを、今後は仕事に活かして、役職なしのお局様から、役職付きのお局様に昇進なさることを期待しております。

 派遣社員 木田様
 「新人のくせに、教えてもらわないと仕事も出来ないのね」とおっしゃっておりましたね。また、いつも仕事への不満を口にしていらっしゃる姿が印象的でした。私は今では「新人だが、教えた仕事をどんどん習得する。将来が楽しみだ。長くうちに勤めてほしい」とお客様に評価していただけるようになりました。木田様のおかげです。私は大変幸せに働いておりますので、教えてもらわないと何もできない新人のことはどうぞ忘れて、ご自分の不平不満に専念していただければ光栄です。


 心からの溢れる思いが長くなってしまいました。申し訳ございません。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 末筆ながら、爽やかな初夏のみぎり、貴店の一層のご発展を心よりお祈り申し上げます。

 敬具

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 彼女は真っ白な便箋にそれをしたため、同じく白い封筒におさめた。封をして、墨痕鮮やかに宛名を書き、切手を貼った。そして、そっと引き出しにしまい、鍵をかけた。

 「出さないのか」
私は思わず聞いた。その手紙は最大級の皮肉を添えた、彼女の仕返しなのではないか。

 「彼らはわたしを傷つけ、踏みにじった。でもそこで諦めないで、頑張って前に進んだ。だから、今がある。最近そう思えるようになったんだよね。わたしは彼らに負けなかった。そのことをここに宣言しようと、思い立ったんだ」
彼女は正面を見据えたまま答えた。
「だから出さなくていい。書くだけで十分だし、本人に届けるにはスパイスが効きすぎている。…何より、あの人たちに『わたしは今幸せです!』なんてこと、教えてあげる価値もないよ」
そう茶目っ気たっぷりに言った。しかし目には強い光を湛えていた。
「わたしはこれからも、正しく強く美しくある。そして仲間と一緒に、幸せに生きていくんだ」
そう言って微笑んだ彼女は、とても凛々しく、美しかった。


 

(この作品は実話ですが、登場する人名・支店名はすべて架空のものです。実在の人物・支店とは一切関係ありません。)