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『無限の春』: 短編小説
「ガチャン!」
目覚まし時計の音で、俺は飛び起きた。
「嘘だろ...」
息が詰まりそうな絶望感が、全身を覆う。目の前の光景が、現実とは思えない。
薄暗い6畳一間のワンルーム。安物の家具と、床に散らばった服。
俺は確かに...死んだはずだ。
佐藤翔太。28歳。つい数時間前まで、IT企業に勤める平凡なサラリーマンだった男。そして、自ら命を絶った男。
昨夜の記憶が、鮮明によみがえる。
35階建てのオフィスビルの屋上。夕暮れの風。遠くに沈む夕日。
そして、決断の瞬間。
欄干を乗り越え、躊躇することなく飛び降りた。
風を切る音。上昇していく灰色の壁。
地面に叩きつけられる衝撃。
そして、すべてが闇に包まれた。
それなのに、なぜ俺はここにいるんだ?
冷や汗で濡れたシーツを掴む手が震えている。鼓動が耳に響く。
「これは...地獄なのか?」
窓の外に目をやると、満開の桜が風に揺れていた。ピンク色の花びらが、朝日に輝きながら舞い落ちる。
その美しさに、胸が締め付けられる。
目覚まし時計は7:00を指している。いつもの出勤時間だ。
「どうして...」
混乱と絶望の中、俺は機械的に体を動かす。シャワーを浴び、髭を剃り、スーツに袖を通す。
鏡に映る自分の顔は、死人のように青ざめていた。目の下のクマが、最近の激務を物語っている。
「これが現実なら...」
喉まで出かかった言葉を飲み込む。現実であるはずがない。俺は確かに死んだのだ。
重い足取りでアパートを出る。満開の桜の下を歩きながら、昨夜の「出来事」を必死に思い出そうとする。
あれは夢だったのか?それとも、これが夢なのか?
駅に向かう道すがら、ふと立ち止まる。公園のベンチに座る老人が、俺をじっと見つめていた。白髪の老人は、穏やかな表情で微笑んでいる。
「おはよう」
老人が声をかけてきた。
その声に、背筋が凍る。この状況があまりにも現実離れしているのに、なぜか懐かしさを感じる。
「お...おはようございます」
震える声で返事をし、足早に立ち去る。
電車の中で、俺は窓に映る自分の姿を見つめる。生きているはずのない自分が、そこにいる。
「これが現実なら...もう一度...」
その考えが頭をよぎった瞬間、背中に冷たい汗が流れる。昨夜の恐怖が蘇る。
会社に着くと、すでに忙しない雰囲気が漂っていた。デスクに座ると、同僚の黒川が話しかけてきた。
「おはよう、佐藤君。今日も忙しくなりそうだぞ」
黒川は35歳のシステムエンジニアで、いつも不思議な雰囲気を漂わせている男だ。
「は、はい...」
返事をする俺の声が、かすれている。
そうして、信じられないことに、いつもと変わらない一日が始まった。
俺の中で、絶望と混乱が渦巻いている。これが現実なのか、それとも死後の世界なのか。
その答えを見つけるために、俺はこの一日を、まるで初めての日のように慎重に過ごすことにした。
一日が過ぎた。そして、また目が覚めた。
「ガチャン!」
同じ目覚まし時計の音。同じ6畳一間のワンルーム。窓の外には、同じように満開の桜が揺れている。
俺の混乱は、さらに深まった。
「なんだこれは...」
震える手で携帯電話を確認する。日付は、一日前に戻っている。
頭を抱え込む。これは夢なのか?それとも、死後の世界なのか?それとも...
「もしかして、タイムループ...?」
SF小説でよくある設定が、現実になってしまったかのようだ。
しかし、なぜ俺がこんな状況に...
混乱しながらも、俺は再び会社に向かった。公園の老人、黒川の挨拶、仕事の内容。すべてが前日と同じだ。
そして、また夜が来た。
俺は再び、あのビルの屋上に立っていた。
「もう一度試してみるか...」
今度は躊躇した。前回の落下の恐怖が、体に刻み込まれている。
でも、これが現実なのか確かめるには、これしかない。
深呼吸をして、俺は再び欄干を乗り越えた。
風を切る音。上昇する壁。地面に叩きつけられる衝撃。
そして—
「ガチャン!」
また同じ朝が来た。
「くそっ!」
俺は叫び声を上げた。逃げ場のない状況に、怒りと絶望が込み上げる。
それでも、俺は機械的に準備を始めた。
公園に向かうと、例の老人がいた。
「おはよう」
老人の穏やかな微笑みに、今回は立ち止まった。
「なぜ...なぜこんなことが起きているんですか?」
老人は不思議そうな顔をした。
「何のことかな?」
「この...同じ日の繰り返しです!」
老人は黙って俺を見つめ、そしてゆっくりと口を開いた。
「君は、何か大切なものを忘れているんじゃないかな」
「大切なもの...?」
答えにならない答えに、俺は困惑した。
会社では、黒川に話しかけてみた。
「黒川さん、もし...同じ日を何度も繰り返すとしたら、どうしますか?」
黒川は少し考え込んでから答えた。
「そうだな...まずは、自分のやりたいことをすべてやってみるかな」
その言葉に、俺は何かを感じた。
そうか...これは罰ではなく、チャンスなのかもしれない。
でも、何のチャンスだ?
俺は何を忘れているんだ?
その日の夜、俺は屋上に行かなかった。代わりに、小さなノートを買い、書き始めた。
『無限の春 - 1日目』
そこに、この奇妙な日々の記録を残すことにした。
明日も、同じ朝が来るだろう。
でも今度は、何か違うことをしてみよう。
この繰り返しの中に、きっと答えがある。
俺は、それを見つけ出すんだ。
「ガチャン!」
目覚まし時計の音で目を覚ます。もう何度目だろう。10回?20回?数え切れないほどの「同じ朝」を経験してきた。
しかし今日は、少し違う。昨晩書いたノートが、ちゃんとそこにある。
『無限の春 - 20日目』
ページをめくると、これまでの記録が残っている。様々な行動、人々の反応、そして俺の内なる変化。全てがそこに記されていた。
「よし、今日は何をしよう」
最初の頃の絶望感は、徐々に好奇心に変わっていった。この状況を呪うのではなく、むしろ楽しもうとさえしている自分がいる。
今日は、会社を休むことにした。電話で体調不良を伝え、街へ出る。
行き交う人々を観察する。彼らは毎日同じことの繰り返しなのに、幸せそうに見える。その秘密は何だろう?
ふと、美咲のことを思い出した。彼女とは最近疎遠になっていた。そういえば、あの「最初の日」も彼女が現れたんだ...
衝動的に、美咲に電話をかける。
「もしもし、翔太君?珍しいね」
「美咲、今日、時間ある?」
「えっ、急だけど...うん、大丈夫よ」
公園で待ち合わせる。桜の下で彼女を待っていると、懐かしい気持ちが込み上げてきた。
「久しぶり、翔太君」
美咲の笑顔を見て、胸が締め付けられる。
「美咲、俺...最近、人生に迷ってるんだ」
言葉が溢れ出す。仕事のこと、将来への不安、そして...この奇妙な状況のこと。
美咲は黙って聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「翔太君、覚えてる?私たちが高校生の頃、君が言ってたこと」
「え?」
「『いつか、小説家になりたい』って」
その言葉に、俺は息を呑んだ。完全に忘れていた。いや、忘れたわけじゃない。諦めていたんだ。
「そうだった...」
「君の書く物語、私、好きだったよ。今でも覚えてる」
美咲の言葉が、俺の心に染み込む。
その日の夜、俺はノートに向かった。しかし今回は、日記ではなく...物語を書き始めた。
『無限の春』というタイトルで。
目覚めると、またいつもの朝。しかし、ノートはそこにあった。物語は消えていない。
その日から、俺の「無限の春」は新しい段階に入った。
毎日、少しずつ物語を書き進める。
街を歩き、人々を観察し、新しいインスピレーションを得る。
美咲や黒川、そして公園の老人と話をし、彼らの言葉から新しい視点を学ぶ。
そして、自分自身と向き合う。
なぜ自殺しようとしたのか。
何を恐れていたのか。
本当にやりたいことは何なのか。
答えは、少しずつ見えてきた。
「ガチャン!」
目覚まし時計の音。しかし今回は、俺は笑顔で目を覚ました。
ノートを開く。『無限の春』の物語は、着々と進んでいる。主人公は、俺自身を投影したキャラクター。彼もまた、時間のループの中で苦しみ、そして少しずつ成長していく。
「今日は、どんな展開にしようか」
朝食を取りながら、物語の構想を練る。かつては重荷だった朝が、今では創造の時間に変わっていた。
会社に向かう道すがら、いつもの公園に寄る。老人はそこにいた。
「おはよう」
「おはようございます。今日もいい天気ですね」
老人は穏やかに微笑む。
「そうだね。君の表情も、晴れやかだ」
「はい。最近、自分のやりたいことが少し見えてきたんです」
「そうか。それは良かった」
老人の言葉に、深い意味を感じる。この不思議な経験の中で、老人の存在は常に俺に何かを示唆しているように思えた。
会社では、黒川に声をかける。
「黒川さん、ちょっといいですか?」
「どうした、佐藤君」
「実は...小説を書いているんです」
黒川は驚いた表情を見せた。
「へぇ、知らなかったよ。どんな話なんだ?」
俺は、『無限の春』のあらすじを話した。時間のループ、自己探求、そして成長の物語。
黒川は真剣に聞いていた。
「面白そうだな。完成したら、ぜひ読ませてくれよ」
「はい、ありがとうございます」
その言葉に、心が温かくなる。
昼休みには、美咲に電話をかけた。
「もしもし、翔太君?」
「美咲、ありがとう」
「え?どうしたの急に」
「君が教えてくれた、昔の夢。今、それを追いかけてるんだ」
電話の向こうで、美咲が嬉しそうに笑う声が聞こえた。
仕事が終わると、俺は急いで帰宅した。パソコンの前に座り、物語を書き進める。
主人公が自分の過去と向き合う場面。それは、まさに俺自身の姿だった。
なぜ夢を諦めたのか。
何を恐れていたのか。
本当の幸せとは何なのか。
書きながら、俺は自分自身の答えを見つけていく。
夜が更けていく。しかし、疲れを感じない。むしろ、充実感で満たされていた。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。
「明日も、また同じ朝が来るんだろうな」
でも今は、それが恐ろしくない。むしろ、期待さえしている。
明日は、どんな発見があるだろう。
物語は、どう展開するだろう。
そして、俺自身はどう変わっていくだろう。
目を閉じる前に、ふと思った。
「このループは、いつか終わるのかな」
その答えは、まだ分からない。
でも、それを恐れる必要はもうないと感じていた。
「ガチャン!」
いつもの目覚まし時計の音。俺はゆっくりと目を開けた。
窓の外では、相変わらず満開の桜が風に揺れている。何度目だろう。もう数え切れない。
ノートを開く。『無限の春』の物語は完成していた。主人公は成長し、幸せな結末を迎えた。しかし、現実の俺は...
「また同じ日か...」
胸に広がるのは絶望ではない。それは複雑な感情の渦だった。
公園に向かう。老人はいつもの場所にいた。
「おはよう」
「おはようございます。今日も桜が綺麗ですね」
老人の穏やかな笑顔に、切なさが込み上げる。この人との会話が、もう二度とできなくなるかもしれない。
「そうですね。本当に...美しい」
声が震える。
会社では、黒川に声をかけた。
「黒川さん、ありがとうございました」
「え?急に何だ?」
「いつも...色々と相談に乗ってくれて」
黒川は不思議そうな顔をしたが、優しく微笑んだ。
「当たり前だろ。我々は仲間だからな」
その言葉に、目頭が熱くなる。
昼休み、美咲に電話をする。
「もしもし、翔太君?」
「美咲...君の声が聞けて、良かった」
「どうしたの?何かあった?」
「ううん、ただ...君に会えて幸せだったって、伝えたくて」
「翔太君...」
美咲の困惑した声。もう一度彼女に会いたい。でも、それはできない。
仕事が終わり、俺は屋上に向かった。夕暮れの空が、悲しいほど美しい。
ノートを広げ、最後のページを書く。
"ありがとう、そしてさようなら"
涙が頬を伝う。この世界での経験、出会った人々、見つけた自分の夢。全てが愛おしい。
欄干に近づく。下を覗き込むと、人々が行き交っている。彼らには、明日がある。
俺にも、明日はあるのだろうか。それとも、これが最後なのだろうか。
「もう一度、やり直せたらな...」
後悔の念が胸を締め付ける。もっと多くのことができたはずだ。もっと多くの人と語り合えたはずだ。
でも、このループを終わらせなければ。たとえそれが、全ての終わりを意味するとしても。
深呼吸をする。桜の香りが、鼻をくすぐる。
「みんな...ありがとう」
目を閉じ、前に踏み出す。
風を切る音。
上昇する壁。
そして—
「ガチャン!」
(終わり)