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「なぜタラントンを地に隠したのか」レビ記25:35~38/マタイによる福音書25:14~30 日本キリスト教団川之江教会 収穫感謝日礼拝メッセージ 2024/11/24

タラントンの譬え話

 今朝マタイによる福音書から示された「タラントンの譬え」は、主イエスが話された数ある譬え話の中でも、とりわけよく知っておられる話ではないかと思います。タラントンというのはお金の単位ですけれども、英語のタレントーつまり才能という言葉の語源となった言葉とも言われています。ですから物語としては商売をしてお金を儲ける話になっていますが、それは譬えであって、そういう譬えを通して主イエスは神様から預かった才能をいかに活かしていくかということを話されているのだと私たちは教えられてきました。改めて物語の筋を、簡単に追っておきたいと思います。
 登場人物は、一人の主人と三人の僕です。あるとき主人は旅行に出かけることになり、自分の財産を留守の間三人の僕に預けることにします。一番優秀な僕には五タラントン、二番目の僕には二タラントン、三番目の僕には一タラントンを預けて主人は旅に出かけていきました。一番目と二番目の僕は預かったお金を元手にして商売をし、預かった金額の倍のお金を手にします。一方三番目の僕は地面に穴を掘って、全額その中に隠しておきました。<かなりの日がたって>主人が帰ってきました。僕たちが預かったお金を、主人に返す時です。一番目と二番目の僕は、儲けた分も合わせて預かった金額の倍のお金を差し出しますと、主人に褒められ、主人の信頼を得てより多くのお金を扱える立場が与えられました。一方隠しておいたお金を取り出して主人から預かったお金をそのまま返した三番目の僕は、主人から叱責され外の暗闇に追い出されてしまうのでした。

天の国から追い出される僕?

 皆さんはこのお話を聞かれて、どんな感想を持たれるでしょうか。お金の話であれ才能の話であれ、適切に用いて豊かな実りを得ていけたなら、それは良いことだと思います。一番目と二番目の僕に倣って自分も預かった賜物を活かせる人になりたい、そう思うのも悪くないと思います。問題は、三番目の僕です。預かったタラントンを無責任に浪費したわけではありません。ただ怠けて放っておいたのでもありません。考えがあって大切に保管していたのです。あるいは事情があって、適切に用いることができなかったのかもしれません。そんな三番目の僕の方にこそ、自分自身の姿が見えるようにも思います。ちなみに<地の中に隠して>おくというのは、当時一般的に安全な保管方法として認められていたのだそうです。ですからそのこと自体を咎めるべきではありません。それなのに主人は三番目の僕を叱責し、外の暗闇に追い出してしまうのです。
 さらに問題なのは、この話の舞台が<天の国>の話だとされていることです。つまり神様を主人に、私たちを僕に譬えているということです。天の国の神様は預けたタラントンを増やした僕を褒め、増やせなかった僕を天の国から追い出されるということです。皆さんは、どう思われるでしょうか。私はこの解釈に、成果主義の臭いを嗅ぎ取ります。成果を上げた者が評価され、成果を上げなかった者はドロップアウトさせられていく、そんな社会を思わせます。それはちょうど、当時のユダヤ社会そのものです。律法を守った者が評価される、献げ物を多く献げた者が評価される、そうでない者は神の祝福の外に追い出される、まさに当時のユダヤ社会では、<天の国>はそのようなものだと思われていたのです。
 そこに一石を投じたのが、主イエスの福音でした。貧しさのゆえに、病気や障がいのゆえに、定められた律法を守ることができず、決められた献げ物ができず、だから「天の国には入れない」とされた人たちに、「天の国はあなたがたのものだ」と主イエスは語られたのです。それこそが、主イエスの福音だったはずです。そんな主イエスが、主人に成果を差し出さなかった僕が追い出されるという当時思われていた<天の国>理解を、そのままなぞった話をするでしょうか。そのままなぞった話が、主イエスの譬えの結論なのでしょうか。

三番目の僕は、なぜタラントンを地に隠したのか

 いったん話の原点に戻したいと思います。<天の国はまた次のようにたとえられる>、主イエスはこのように話し始められますから、とにかくこれは天の国の譬え話です。一人の主人が登場し、三人の僕に主人の財産を預けます。<一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン>。一タラントンは6000デナリオン、一デナリオンは日雇い労働者一日分の日給ですから6000日分、一年の労働日数が仮に300日として20年分の給料に当たります。一番目の僕の五タラントンは100年分、一生かけても稼げない金額です。主人は預けたお金を僕から返してもらうとき<少しのものに忠実であった>と言っていますが、ぜんぜん<少しのもの>ではありません。この途方もない金額は、天の国の豊かさを表しているのでしょうか。
 日雇い労働者の稼ぎから言えば途方もない金額ですが、これが会社のお金となると印象が違ってきます。一日分の日給一デナリオンを仮に愛媛県の8時間の最低賃金7648円とすると、一タラントンは約4600万円、五タラントンは2億円余りです。優秀な社員に2億円の運用を任せるというのは、大会社では十分にあることです。つまり三人の優秀な僕に合わせて八タラントン、約4億円の資金を運用させるというのは彼方にある天の国の話ではなく、この地上のリアルな話なのです。そしてこのような主人に、労働者は一日一デナリオンで雇われているのです。
 夜明け前から日暮れまで、一日中ブドウ園で働いて一デナリオンの約束。一時間しか働かなかった人にも一デナリオンを支払う気前のいい主人に不平も言いたくなるほどギリギリの生活をしている人が、この譬え話を聞いたらどんなふうに思うでしょうか。約束だからと少しの賃金アップもしてくれないのに上の方では五タラントンもの大金を倍に増やして<よくやった>と景気のいい話をしている主人、そして利息もつけないでそのまま返してきた僕を役立たずだと追い出す主人に、おそらくはいい印象を持たないでしょう。そんな主人に忠実に稼いできた二人の僕よりも、冷たく追い出されてしまった三番目の僕に同情するでしょう。そしてそれが<天の国>の話だったなら、彼らは<天の国>に希望を持つことはないと思います。まったく今の厳しい現実と、なんら変わることがないからです。
 では三番目の僕は、なぜ地にタラントンを隠したのでしょうか。その理由を、彼はちゃんと言っています。けれども彼の言葉は、しばしば読み飛ばされてきたように思います。なぜなら彼の言葉は、主人である神様を批判していると解釈されてきたからです。なので取り上げられたとしても、三番目の僕の思い違いだと言って切り捨てられてしまいがちです。でもこれは、彼の唯一の言葉です。しかも主人の口によって二度繰り返されている言葉です。この言葉こそ、この譬え話の鍵なのではないかと思うのです。
 三番目の僕は、主人の前に進み出てこう言っています「<御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり>ました」。蒔かない所からは刈り取れませんから、これは他人が蒔いたものを搾取することです。「散らす」というのは例えば特別ボーナスを支給したり食事を振舞ったりというような既定の報酬以外の待遇を労働者に与えることを言うのですが、そういうことをせずに働けるだけ働かせて収益を上げる労働搾取のことです。一デナリオンで早朝から日暮れまで働いたブドウ園の労働者は、そういう労働搾取に遭っていたわけです。主人の財産は、そういった搾取によって築かれていった。一番目と二番目の僕も、同じようにして二倍稼いだ。そのことを告発しているのです。そして彼自身は、そのような搾取に手を染めようとはせず、そんな主人に抵抗して預かった一タラントンをすべて地の中に隠したのではないでしょうか。
 そんな三番目の僕に、主人はこう言い返しています<だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる>。これもいろんな説明がされますが、ストレートに読めば貧しい者から搾取することを堂々と認める言葉ではないでしょうか。そんな主人から見れば三番目の僕は確かに役立たずですし、雇い続けて同じ考えを持つ者が増えたら厄介ですから、即刻解雇してしまうのでした。

外の暗闇とは?

 では三番目の僕が放り出された<外の暗闇>とは、どんな所でしょうか。ここから先は、主イエスは話しておられません。ですから私の解釈ですが、<外の暗闇>は搾取され貧しくされた人たちがいる所ではないでしょうか。主人と僕がいる所は、天の国ではありません。搾取が横行する格差社会を象徴しています。ですから主人も神様ではありません。搾取する者を褒め、持っていない人から持っているものを取り上げる冷酷な大富豪です。私は<外の暗闇>に追い出された三番目の僕こそ、主イエスではないかと思います。搾取される人たちを思い冷酷な社会に抵抗した主イエスは、様々な理由で社会から追い出された人たちと共に歩まれました。そして<天の国はその人たちのものである>と言われたのです。<天の国>は社会から<外の暗闇>と見られている所にある、主イエスはこの譬えを通してそう言われているのではないでしょうか。
 三番目の僕は<そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう>と言われていますが、これは僕を追い出した主人の捨て台詞です。三番目の僕はきっと、泣きわめいてもいないし歯ぎしりもしていないのではないかと思います。むしろそこで<天の国>の実現を、皆と<一緒に喜んで>いるのではないでしょうか。 

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広瀬満和
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