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「今、共にいる」コリントの信徒への手紙一15:12~19 日本キリスト教団川之江教会 イースター礼拝メッセージ 2023/4/9

 イースターおめでとうございます。イースターはイエス・キリストが復活されたことをお祝いする記念日です。十字架刑に処せられ死なれたイエス・キリストが3日目に復活された、聖書はそう証言しているからです。3日目と言っても、丸々3日後というわけではありません。主イエスが十字架の上で息を引き取られたのは安息日が始まる前の午後3時過ぎ、金曜日の夕方でした。アリマタヤのヨセフが日の暮れる前に主イエスの遺体を埋葬し終えた頃、安息日が始まります。土曜日です。そして翌日、日曜日の朝早くには主イエスは復活しておられました。金土日と足掛け3日ですが、実質は1日半後の出来事ということになります。ちなみにキリスト教会が日曜日に礼拝をするのは、主イエスが復活されたのが日曜日だからです。日曜日が休みの日だから礼拝の日にしたのではなく、主イエスが復活された日に礼拝するために日曜日を休みの日にしたのです。教会で日曜日を「主の日」あるいは「の」を取って「主日」というのも、そういう意味があるわけです。
 さて日曜日の朝、復活の主イエスに最初に出会ったのは、マグダラのマリアを始めとする女性たちでした。彼女たちは主イエスが十字架に架けられ苦しみながら死んで行かれるのを、そして十分な弔いもできずに墓に葬られるのをずっと見守っていたと言います。それはガリラヤからエルサレムに来た、旅先の出来事でした。その旅を導いて昼も夜もいつも一緒におられた主イエスが突然死なれ、いなくなられたのです。その喪失感はいかばかりであったでしょうか。安息日には墓参りすることも外出することも許されていませんでしたから、慣れない旅先の宿で二晩と一日どんな思いで過ごしていたのでしょう。察するに余りありますが、安息日が終わると早朝まだ辺りが暗いうちに墓へと急いだのです。3日前最後に主イエスの姿を見届けたのは遺体が墓に葬られるときでしたから、ここに来れば主イエスにまたお会いできるかもしれない、そんな思いにすがったのかもしれません。主イエスへの思いを残したお墓の前にもう一度戻らなければこの先どこにも進めない、そんな思いに駆られたのかもしれません。そしてマリアたちは、その墓の前で復活の主イエスに出会ったのです。
 そのとき、男性の弟子たちはどうしていたのでしょうか。ある弟子たちは宿の一室に集まっていました。主イエスが死んでいなくなられた喪失感、主イエスを処刑した権力者への恐怖、指導者を失ってなにをしていいかわからなくなった虚無感、いろんな思いがないまぜになってうずくまることしてできないでいました。別の弟子たちはエルサレムを離れて、故郷に帰ろうとしていました。主イエスにかけていた望みが突然に断ち切られ、失望あるいは絶望したのでしょう。それでも主イエスと過ごした日々のことを思い返しては、旅の途中その話ばかりをしていました。また故郷に帰って、元々の仕事に戻った弟子たちもいました。主イエスに出会う前の慣れ親しんだ日常生活に身を委ねたのです。主イエスと過ごした日々や主イエスが死なれたことは、夢か幻のように感じていました。でもそれは主イエスのことを忘れかけていたのではなく、主イエスへの思いが心の奥深くに沈みこんでいたのでしょう。そんな彼らにも、復活の主イエスは現れました。それぞれの弟子たちが、それぞれの場所で復活の主イエスと出会ったのです。

 ここまでの話をお聞きになられて、主イエスが復活されたとはどういうことなのかと思われたでしょうか。たとえば完全に止まってしまった人の心臓がもう一度動き出して、その人が立ち上がったという話ではなさそうです。復活の主イエスに出会った人が、別の人のところに連れて行って「この人が死んで復活された主イエスです」と紹介して出会いの輪を広げていくというものでもなさそうです。つまり主イエスが復活されたということ、復活の主イエスと出会ったということは客観的に誰にでも確認できる事柄ではなく、極めて個人的・主観的な体験なのではないかということです。しかも生前の主イエスと深い交わりを持ち、主イエスへの深い思いがある。その思いは良い思い出だけではなく、いえむしろそれよりも思い残しとか後悔とか罪悪感といったネガティブな思いのある人が、復活の主イエスに出会っているのではないでしょうか。
 こういうふうに言うと、決まってこう返してくる人がいます。「やっぱりイエスの復活は心の問題で、本当にあった話ではないんですね。<死者の復活などない>、死んだ人が復活するなどありえないですから」。また逆に敬虔な信徒や牧師からも批判を受けます「主イエスの復活は心の問題ではなく、本当にあった話です。あなたは牧師なのに復活を信じていないのですか」。この二つのタイプは、真逆のことを言っているようです。一方は「心の問題で、本当の話ではない」、もう一方は「心の問題ではなく、本当にあった話だ」。でもこの二つのタイプ、私には同じことを言っているように思います。つまり両方とも「心の問題であれば本当の話ではなく、本当にあった話であれば心の問題ではない」という筋立てだからです。でもそれは真実なのでしょうか。心の問題は本当の話ではないのでしょうか。そもそも本当の話とは、いったいなんなのでしょうか。

 「お迎え現象」という話があります。よく死に際にある人が見るという、あの「お迎え」です。既に亡くなった人が現れて、自分を迎えに来たというのです。本当に見たと言うのです。真剣にそう言うのです。でも周りの人は、そう思いません。話を合わせることはあっても、本当にあった話とは思いません。錯覚だとか、幻覚だとか、そういうことで片付けようとします。医学的にも「譫妄=意識の混乱」と説明されます。おそらくそう言った説明は、間違いではないのでしょう。でもだからといって、本当に見たと真剣に言うことをそれで片付けてしまってよいものなのでしょうか。
 あるご高齢の末期の患者さんがおられました。お連れ合いは既に他界されていました。緩和ケア病棟に入院され、しばらくは穏やかに過ごされていましたけれども、死期が近づいたことをご本人も自覚された頃、お連れ合いさんの名前を呼んで「どこにいるの?」「会いたい」としきりに言われるようになりました。ご家族に「連れてきて」とせがむこともあり、叶えられないことに悲しみ苦しまれることが多くなっていきました。それを見聞きするご家族もまた、とても辛い思いをされていました。ある日、この方が笑顔でおられました。「どうしたのですか」とお訊きすると、お連れ合いが会いに来てくれたと言われるのです。「私はここにいるから安心しなさい」と言われたというのです。そして数日後、その方は穏やかに旅立って行かれました。辛い最期を覚悟しておられたご家族も穏やかに看取っておられ、病院スタッフも穏やかにお見送りができたといわれていました。
 これは本当にあった話です。辛い思いをしていた患者さんが本当に穏やかに最期を迎えられ、ご家族や病院スタッフが本当に穏やかな思いで看取りをされた出来事です。その中心に「お連れ合いが患者さんに会いに来て声をかけられた」ということがありますけれども、その肝心のことは本当ではないのでしょうか。本当ではないのなら、最後の穏やかさはまやかしだったということになるのでしょうか。もしご家族がご本人に「それは本当は錯覚だ、幻覚だ」と言ったら、どうなったでしょう。ご本人は余計辛い思いをされたでしょう。それは幻覚だと知って辛い思いをするのではなく、本当にお連れ合いが会いに来たということをご家族が認めてくれないという悲しさ、辛さ、怒りではないでしょうか。患者さんの本当をご家族が拒み、ご家族の本当を患者さんが拒む。その先に、あの穏やかな最期を迎えることはできなかったのではないでしょうか。あるいはまたご家族がご本人に話を合わせたとしたら、どうでしょうか。ご本人は穏やかに最期を迎えられたかもしれません。でもご家族は、最後に嘘をついてしまったということが心残りになってしまうのではないでしょうか。もしかしたらご本人も優しい嘘に気づいて、穏やかなふりをして旅立って行かれたのかもしれませんし、それをご家族が思ったならそれもまた切ないことになってしまいます。
 本当の話は、患者さんが本当に穏やかに旅立たれ、ご家族が本当に穏やかに看取りをされたということです。多くの最期に立ち会って来られたプロである病院のスタッフが、本当に穏やかな最期だったと言われるのですから、本当の話です。「お連れ合いが患者さんに会いに来て声をかけられた」、医学的には病状が見せた幻覚だと説明し、心理学的にはご本人の「会いたい」という心が見せた錯覚だというのでしょう。もしそれが本当だとしても、だから患者さんがお連れ合いに会ったということが本当ではないということにはなりません。それもまた本当のことなのです。ご家族は、お連れ合いさんに本当に会うことはないでしょう。医学的・心理学的な説明にも納得するのだろうと思います。だとしてもご本人の言われることは、ご家族にとっても本当のことなのです。本当のことだから、本当の穏やかさが得られたのです。

 主イエスが復活された、これは本当の話です。主イエスに背き主イエスを見捨てた後悔と罪の意識に苛まれていた初代の使徒たちが、主イエスの福音宣教者として生き直すことができたのは、復活の主イエスに出会い今共にいてくださることを確信したからです。キリスト信徒を迫害していたパウロが180度生き方を変えたのは、復活の主イエスが今共におられることを知ったからです。それから2000年間絶えることなく、何億人・何十億人にもなる人たちが復活の主イエスに救われ、生き方を変えられ、希望が与えられたことは紛れもなく本当のことです。だから科学的に説明できないとしても、一人一人の心の問題だとしても、復活の主イエスは本当に今、私たちと共におられるのです。

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広瀬満和
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