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「曙の光が我らを平和に導く」ルカによる福音書1:68〜79 日本キリスト教団川之江教会 元旦礼拝メッセージ 2023/1/1

 私たちはいま、近年にない困難に遭っています。コロナ禍は4年目になりますが感染者は今、これまでで一番多くなっていて収まる兆しが見えません。感染症や後遺症で苦しみ、経済活動が抑制されて仕事を失い収入が得られない方々が増えています。また昨年はロシアがウクライナに侵攻して新たな戦争が始まり、その戦火は今も止まないままです。現地では多くの方々が日々いのちの危険にさらされ、住む所を奪われて避難生活を強いられています。日本ではその影響で物価が高騰し、生活を圧迫しています。そんな困難に対処すべきはずの政治は、まったく機能していません。それどころか税金の負担を重くするとか、それを軍備増強に使うとか、まったく逆のことばかりする政治に私たちは余計に苦しめられています。
 そんな出口が見えない困難の中で、教会は聖書に希望を見いだします。聖書に記された希望に、私たちは活路を見いだすのです。それは、ただの現実逃避ではありません。厳しい現実をしばし忘れて、聖書の優しい言葉にしばし癒されようとするのではないのです。なぜならば聖書に記された希望は、困難な現実の中で語られたものだからです。現実の困難をどのように克服していくのか、出口が見えない中でどこに希望を求めていくのか、そのことが聖書には記されているからです。だから私たちは今、困難の中にあるからこそ聖書の言葉に耳を傾けるのです。聖書に示された希望が、私たちの希望となるからです。

 今朝ルカによる福音書から示されたのは、ザカリアという人が歌ったクリスマス賛歌です。イエス・キリストの誕生を讃える歌です。
 ザカリアにはエリサベトという妻がいるのですが、子どもがないまま二人とも高齢になっていました。ある日ザカリアに天使が現れて、エリサベトに子どもが生まれることを告知します「<その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ>、そしてやがて来られるイエス・キリストの救いを人々が受け入れられるよう、その子に準備させる」。けれども高齢になった自分たち夫婦に子どもができるなど常識ではありえないことでしたし、キリストの救いの準備とか荒唐無稽に思われてザカリアは信じませんでした。
 けれどもエリサベトには、天使が告げた通りになりました。近所の人や親類たちも、神様がエリサベトを慈しまれたと喜び合っています。それを見ていたザカリアは、自分の過ちに気づきます。そして湧き上がってくる思いを歌ったのが、このクリスマス賛歌なのです。
 <ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた>。この最初のところでザカリアは、人々を解放し救いの角となるイエス・キリストの誕生を讃えています。より正確に言えば人々を解放し救いの角となるためにイエス・キリストを誕生させた主なる神様を讃えているのですが、では神様は人々をどこから解放されるというのでしょうか。人々は何から救われるのでしょうか。
 歌全体を見渡してみると、いくつか見つけ出すことができます。<我らの敵><我らを憎む者>、そして私たち自身の<罪>です。私たちが敵の手から救われること、私たちを憎む者から救われる音、そして自分自身の罪から赦されて救われることです。
 ではザカリアの歌を最初に聞いた当時の人にとって<我らの敵>、<我らを憎む者>とは具体的には何だったのでしょうか。当時の人々が住んでいたユダヤという名の国は、ローマ帝国という巨大な国に侵略され支配されていました。人々は国外に逃亡するか、帝国の支配下に留まるかのどちらかでした。ローマ帝国はユダヤの自治権をある程度認めていたので、ユダヤにはヘロデという国王がいて、ユダヤ人による議会も開かれていました。ですのでユダヤ政府が帝国との間に立って、ユダヤの人々のために取り計らってくれるように思います。けれども実際には、ユダヤの政治家たちは既得権を守るために帝国の顔色を伺い人々の困難に対処することはありませんでした。帝国に刃向かう者があれば、ユダヤ政府が取り押さえるほどでした。人々が救いを求める先は、どこにもなかったのです。
 ではもう一つの、自分自身の<罪>とは何のことでしょうか。キリスト教で言われる罪というのは、法律を犯すことではありません。一言で説明するのは難しいですが、たとえば「力に頼って自分を守ろうとすること」です。力とは権力とか、財力とか、軍事力とか世の中でそれがあれば強いと言われる力のことです。強い力に頼れば、確かに自分は守られるかもしれません。けれどもそこでは必ず、誰かが犠牲になっています。先ほどの話で言えば、ユダヤ政府はローマ帝国の力に頼り人々を犠牲にして自分たちの権益を守りました。ロシア大統領は自分の権威を守るために軍事力に頼ってウクライナを犠牲にし、ウクライナ大統領は自分の威信を軍事力で守りウクライナの人々を犠牲にしています。私たちも同じです。自分を守るために、自分たちを守るために、強い力に頼ろうとするならば、必ず誰かを犠牲にしていることに気づかなければなりません。そしてその誰かは自分自身かもしれない、だから人はもっと強い力を求め続け、もっと多くの犠牲者を生み出していく。その循環の向こうに救いはありません。だから私たちに必要なのは「力によって自分を守ろうとする」ことから解放されること、それでこそ私自身が、そして全ての人が救われるのです。
 
 だからイエス・キリストは、力を持たれませんでした。主なる<神の憐れみの心>で、この世で最も力弱くされた人たちと共に生きられたのです。<あけぼのの光が・・暗闇と死の陰に座している者たちを照ら>すように、力ある者にではなく力なき者と共に歩まれたのです。
 新しい年、強い力に頼ろうとする罪から解放されて、主なる神様の憐れみによる救いを求めたいと思います。そして<平和の道に導>いてくださる主イエス・キリストと共に歩んで行きたいと思います。

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広瀬満和
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