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「愛は神」イザヤ書60:1~6/ヨハネの手紙一4:7~14 日本キリスト教団川之江教会 降誕節第一主日礼拝メッセージ 2024/12/29

三人の博士のイメージ

 一年最後の礼拝は、教会の暦ではクリスマス後最初の礼拝になります。聖書日課では通常、生まれたばかりの主イエスを東方の博士が来訪したことが覚えられます。この東方の博士来訪の出来事は、イザヤの預言から導かれています<らくだの大群 ミディアンとエファの若いらくだが あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えてくる。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる>。らくだに乗った三人の博士が黄金・乳香・没薬を献げたというイメージは、この預言が元となっているわけです。ミディアンとエファはアラビアで遊牧をしていた民で、シェバはやはりアラビアで貿易商を営む人たちでした。聖書ではミディアン人はユダヤ人によってモーセの時代に民族浄化され、シェバはダビデの時代に殺害されたとされています。つまりミディアン・エファ・シェバは皆、ユダヤから虐げられていた人たちです。そんな人たちのイメージが、ユダヤの王として生まれた主イエスの誕生を祝いに駆け付けた東方の博士に重ね合わされているのです。
 さらにクリスマスへと導かれる出来事は、こう預言されています<あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。・・あなたの上に主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる>。つまり預言された私たちの上に輝く主の栄光、私たちの上に現れる主の栄光が主イエスの誕生として実現したと福音書は告げているわけです。ではさらに話を前に進めて、私たちの上に現れた主の栄光とは具体的に何のことなのでしょうか。主の栄光の実現である主イエスの誕生は、具体的に何を私たちにもたらしたのでしょうか。

信仰より大いなる愛

 ヨハネの手紙は、それは<愛>だと言います。神の子イエスの誕生は、私たちに愛をもたらした出来事だということです。それをヨハネは<神は愛>だと言っています。神の愛ではありません。つまり神さまが愛というものをもたらしたというのではなくて、神さまは愛そのものだと言っているわけです。言い換えれば、愛を神としていると言っても良いかもしれません。
 パウロもまた<愛>についてコリントの信徒たちに語ったとき、<信仰と、希望と、愛、・・その中で最も大いなるものは、愛である>と言っていました。けれども教会はともすれば、愛よりも信仰を重んじているところがあるのではないでしょうか。信仰のある人は神さまを知っていて、信仰のない人は神さまを知らない、私たちはとかくそんな風な判断をしているのではないでしょうか。そしてたとえば信仰のある人が特定の人たちを差別するとき「これは差別ではない、神の御心に沿った区別だ」と正当化することがありますし、信仰のある人がある特定の戦争を「これは神の御心による戦いだ」と肯定することもあったりするのです。でも差別や戦争では、その犠牲者となる人たちを愛していないことは明らかです。それでもなお、その人たちを愛さないことを正当化するなら、それは愛すべき隣人とは誰かと主イエスに問い質した律法の専門家と同じ過ちを犯していることにならないでしょうか。
 ヨハネは信仰ではなく、愛を判断基準にしています。<愛する者は・・神を知っている>し、<愛することのない者は神を知りません>。それは<神は愛だから>とヨハネは言い切るのです。ですから信仰があっても、愛することをしない者は神さまを知らないということになります。さらに極論すれば、たとえ信仰がなくても愛を実践する人は神さまを知っているということです。愛は神だからです。愛こそが神さまだからです。
 主イエスキリストの誕生によって、私たちは愛によって生きるものとされました。それがクリスマスの喜びです。クリスマスを迎えた私たちは、もはや何かを憎んだり排除したり虐げたりする必要はないのです。クリスマスをお祝いする、それは<愛がわたしたちの内で全うされ>たことをお祝いするのです。

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広瀬満和
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