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「最後の晩餐をご一緒に」出エジプト記12:21~30/ルカによる福音書22:14~23 日本キリスト教団川之江教会 棕櫚の主日礼拝メッセージ 2023/4/2

 キリスト教の暦では、今日から土曜日までの一週間を「受難週」と言います。イエス・キリストが十字架に架けられて死なれたことを憶える一週間です。キリスト教のシンボルが十字架であることが示しているように、この受難週とその翌日のイースターはキリスト教にとって一番重要な時です。キリスト教の記念日と言えばクリスマスが一番に挙がるのかもしれませんが、敢えて言えばクリスマスよりも大切な記念日と言えます。
 受難週の初日、つまり今日ですけれども「棕櫚の主日」と呼ばれます。主イエスと使徒たちが旅の目的地にしていたエルサレムに着いたとき、町の人々が棕櫚の葉の付いた枝を道に敷いて主イエスを歓迎したことからこの名が付きました。欧米ではVIPを出迎えるときレッドカーペットを敷いて、VIPがそこを歩いてくるという映像を見られたことがあると思いますが、このとき主イエスを出迎えたのは一般の町の人々でしたから赤い絨毯のような高級なものは準備できません。それで棕櫚の枝とか自分が来ていた上着を脱いで道に敷いて、精一杯の歓迎をしたのでした。けれどもエルサレムには主イエスの新しい教えに反対し主イエスの人気を妬む人たちが、主イエスの命を狙っていたのです。「そうとは知らない主イエスたちは・・・」と言えばサスペンスドラマの定石ですが、主イエスはそのことも知っていて覚悟の上でエルサレムにやって来られたのでした。
 ではなぜ主イエスは、この時期にエルサレムまで来られたのでしょうか。それは「過越の祭」があったからです。過越の祭というのはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、神様の導きによってエジプトを脱出したことを記念する祭りです。ユダヤ三大祭の中でも一番大きなお祭りですから、祭りの日が近づくとイスラエル中から大勢の人が集まってきました。主イエスの新しい教え、神の国の福音をより多くの人たちに伝えるには絶好の機会だったと言えます。それでエルサレムに着いた翌日から主イエスは町に出て、神の国の福音について精力的に話しました。主イエスの命を狙っていた人たちは主イエスを捕まえる口実を見つけるために、いろいろと論争を仕掛けていきました。けれども主イエスは、その論争にも屈せずに立ち向かっていかれたのです。まさに、命を懸けた宣教だったわけです。

 ところで出エジプトを記念する日を、なぜ「過越」というのでしょうか。それは神様の災いが、イスラエルの人たちを<過ぎ越し>たという意味があります。
 奴隷であったイスラエルの人たちがエジプトを脱出するのは、簡単なことではありません。それで神様はエジプト中を大混乱に陥れて、その隙に脱出するという計画を立てられます。それは真夜中に神様がエジプト中の家々を巡ってその家の初子、つまり一人目の子どもの命を奪うというものでした。エジプトの王ファラオの初子も、奴隷の家の初子も例外はありません。でもそれでは、イスラエルの人たちの初子も撃たれてしまいます。そこで神様は、イスラエルの人たちにこう伝えます「その夜は家族で、小羊を一匹屠って食事をしなさい。そしてその小羊の血を<鴨居と入り口の二本の柱に・・塗りなさい>」。そうすれば神様は、その<塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越され>イスラエルの家の子どもを助けられるというのです。かくしてエジプト中のすべての家が、突然の子どもの死に悲しみに包まれました。ファラオの宮殿も例外ではありませんでした。その隙にイスラエルの人たちは、エジプト脱出を成功させたのです。
 このことを記念して、過越の祭の夜には<過越の食事>をすることが慣わしになっていました。食卓には小羊の肉料理と酵母で膨らませていないパン、苦みのある野菜が並べられました。どれも出エジプトを記念する料理です。またワインは、過ぎ越しの印となった小羊の血になぞらえられました。
 主イエスは<この過越の食事を>使徒たちと<共に・・したいと・・切に願って>おられました。いわゆる最後の晩餐ですが、聖書には「最後の晩餐」とは書かれていません。というのも、もし聖書に「最後の晩餐が催された」と書かれていたら、食卓を囲む主イエスと使徒たちが「皆で食べる最後の食事だ」と送別会のようなイメージが湧いてくるでしょう。でもおそらく使徒たちは、これが「最後の晩餐」だとは思っていなかったのだと思います。主イエスだけはこれが最後だと覚悟しておられて、もう<決してこの過越の食事をとることはない>と言われても使徒たちには伝わっていなかったように思います。
 もう一つ理由を挙げるとすれば、この主イエスと使徒たちとの<過越の食事>は「聖餐式」として教会に引き継がれてきました。私たちの教会が行なう聖餐(式)も、この主イエスが切に願っておられた使徒たちとの<過越の食事>を引き継いだものです。ですから、このときの主イエスの言葉が「制定の言葉」としてそのまま用いられています。<(このパン)は、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのようにおこないなさい><この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である>。そして聖餐を受ける者は「感謝を持ってこれを受け」るようにと促されるのです。そこでもう一つ、ご一緒に考えてみたいことがあります。私たちは何を感謝するのでしょうか。何に対して感謝を持って聖餐を受けるのでしょうか。

 よく言われるのは、私たちの救いのために主イエスが犠牲となられたことに感謝するということです。たしかに聖餐式の元を辿れば、過越の食事に行き当たります。過ぎ越しの夜には小羊の肉がエジプト脱出という大仕事前の食事となり、小羊の血は神様の災いが過ぎ越すための印となりました。つまり小羊が犠牲となって、イスラエルの民が救われたということです。そのことを記念するために過越の食事がなされ、そのメニューが定められたのです。聖餐式ではイエス・キリストが、その小羊になぞらえられました。それは主イエスが犠牲となって、私たちが救われたということです。鞭に打たれて裂かれた主イエスの体と流された血の印として、聖餐ではパンとぶどう汁をいただくのです。では私たちは主イエスの犠牲に感謝して、パンとぶどう汁をいただくのでしょうか。
 もう一つ、よく言われることがあります。それは主イエスが単なる犠牲ではなく、最後の犠牲となられたことに感謝するということです。つまり動物の犠牲は繰り返して捧げられなければならないけれども、主イエスは犠牲を終わらせるために最後の犠牲となられたということです。主イエスが犠牲となられたので、私たちはもう犠牲を捧げなくてもよくなったということです。でもその考え方には違和感を覚えます。犠牲を終わらせるために犠牲となられたという言い方は、戦争を終わらせるために戦争をすると言うのとよく似ている気がします。第二次世界大戦の戦没者を英霊として感謝し称える人たちほど、さらなる犠牲を求める戦争に前向きのように思えてなりません。今戦争を起こしている為政者たちからは、犠牲になった自国民に対する謝罪や後悔の言葉は聞こえてきません。むしろ戦死した兵士に対しては「逃げるのではなく、敵に立ち向かった」といった称賛の声が聞こえてきます。一方不戦を誓う人たちは、けっして戦争犠牲者を称えたりはしません。「もう二度と過ちは繰り返しません」と、謝罪と後悔の思いが募るのではないでしょうか。それにもし聖餐式が主イエスの犠牲に感謝して受けているのだとすれば、私たちは儀式の上で主イエスの犠牲を求め続けていることになるのではないでしょうか。神の国をこの地上に来たらせ誰も犠牲とならない真の平和を実現しようとされた主イエスが、犠牲に感謝することを求めておられるとは思えません。それに主イエス御自身、<神の国が来るまで><決してこの過越の食事をとることはない>と言われています。だとしたら主イエスが<わたしの記念としてこのように行いなさい>と言われた聖餐とは、どのようなものなのでしょうか。そして私たちは何に感謝して、これを受けるのでしょうか。

 <これは、あなたがたに与えられるわたしの体である>、主イエスはパンを配られるときこのように言われたのでした。「私たちの体は食べたもので出来ている」と言われることがありますが、その通り「私たちに与えられる主イエスの体」をいただく私たちの体は、主イエスで作られていくということです。言い換えれば私たちには体ごと主イエスが共におられる、体ごとインマヌエルの主でいてくださるということです。私たちは、このことにこそ感謝したい。
 次に主イエスがぶどう酒の入った杯を配られるときに言われたことです<この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である>。でもこの後には「わたしの記念としてこのように行いなさい」ではなく、<しかし、見よ、わたしを裏切る者が・・一緒に手を食卓に置いている>と言われています。つまり<あなたがたのために流される>主イエスの血を流したのは、あなたがた自身だと言われているのです。けれども使徒たちは<いったいだれが、そんなことを>と、他人事のように<議論し始めた>のです。私たちはもう誰の血も流さない、誰も犠牲にしない神の国に招かれています。それでもなお私たちは誰かの血を流してしまう存在です。それでも主イエスは、その血を赦しの杯に入れて<新しい契約>として私たちに与えてくださったのです。私たちに与えられているのは犠牲によって流された血ではなく、赦しの杯に入れられ、もはや流されることはないと誓われた<新しい契約>なのです。私たちは、このことにこそ感謝をしたいと思います。そして使徒たちのように他人事として議論するのではなく、インマヌエルの主にこの身を委ねて、誰も犠牲にならない神の国の食卓に招かれたいと思います。

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