「豊かな言葉が証しを豊かにする」 コリントの信徒への手紙一1:1~9 日本キリスト教団川之江教会 公現後第三主日礼拝メッセージ 2023/1/22
キリスト教の聖書は大きく分けて旧約聖書と新約聖書に分かれていますが、さらに細かいことを言えば、たとえば今日のところでは「申命記」とか「コリントの信徒への手紙一」といったような、それぞれ独立した文書が寄せ集められて一冊の聖書になっています。聖書の中にどれだけの文書があるのかというと、旧約には39、新約には27、合計66の文書が集められています。新約の27書をもう一度まとめ直すと、だいたい大きく二つに分けることができます。前半はイエス・キリストやその弟子たちの言葉や行なったことが物語風に記された部分で、福音書とか言行録と呼ばれています。そして後半はその名の通り、手紙で占められています。手紙は、分量的には新約全体のだいたい4割くらいですが、文書の数で言えば8割近くが手紙となっています。
今日新約から示されたのは、そんな手紙の一つ「コリントの信徒への手紙一」の書き出しの部分です。手紙の書き出しですから宛名や差出人の名前、そして挨拶と感謝が記されます。手紙の本文、差出人が言いたいことや伝えたいことは、この後に記されていきます。ですから手紙の書き出し部分だけ読んでも、つまらないかもしれません。実際礼拝で短くある部分を抜き出して読むとき、書き出しの部分だけ読むというのもあまりしないように思います。けれども時代も文化も習慣も私たちとは違う人たちの手紙ですから、書き出しだけでも何かと読み取れたりする者です。せっかく聖書日課として示されたので、細かい話になるかもしれませんが、順番に辿ってみたいと思います。
まず差出人には、パウロとソテスネ二人の名が記されています。それぞれ肩書がついていて、パウロは<神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となった>人物であること、ソテスネは<兄弟>と記されています。パウロの長い肩書には、これは個人的な手紙ではなく、使徒としての立場で書く公的な手紙だということが表されています。また<神の御心によって召されて>というふうに書くことで、組織的な役職に留まらない使徒としての使命感が言い表されています。またこの手紙の宛て先は-後から出てきますが-大勢の人なので、パウロを知らない人たちに向けた自己紹介の意味もあって少し長めの肩書をつけたのかもしれません。
一方ソテスネは対照的に、あっさりと<兄弟>とだけ記されています。なんだが差をつけたような感じがしないでもありませんが、実はソテスネは元はコリントの会堂長を務めていた言わば町の名士でした。今はパウロと行動を共にしているようですが、コリントの人たちは以前から良く知っている人物だったようです。だからわざわざ肩書をつけなくても、誰だか分かるということなのかもしれません。ただ<兄弟>というのは、キリストの信徒を表す肩書です。ですからユダヤの会堂長として知られた人物が<兄弟>と呼ばれるのは、それだけで十分重みのある肩書だったと言えるのかもしれません。
次に宛て先ですが、<コリントにある神の教会へ>となっています。そして<キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ>と言い換えられています。つまりはコリントの教会に集うキリストの信徒たちに宛てられた手紙だということで、文書のタイトルはここから付けられています。さらには<至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人>のことに触れています。コリントの信徒たちだけでなく、場所は違っても同じく<キリストの名を呼び求めているすべての人>が視野に入れられています。<名を呼び求めている>という表現は礼拝を献げるという意味だと言われていますが、礼拝を献げるのは信徒となった人だけではありません。それにパウロはキリストの神様を知らないユダヤ人以外の人たちにも福音を伝えていった人ですから、今は礼拝に集っていなくてもイエス・キリストの名を意識していなくても、その福音が指し示す救いや平安を求めているすべての人が念頭に置かれていると考えることもできます。ですから後に続く<恵みと平和が・・あるように>との言葉はコリントの信徒たちに留まらず、潜在的に福音を求めている世界中の人たちに向けられた祈りなのではないでしょうか。
次にパウロはコリントの信徒たちが<キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて>、神様に感謝を献げています。そして信徒たちが<キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされて>いると述べています。
コリントはギリシャの町、ギリシャ哲学では<言葉>や<知識>が尊ばれていました。知識は言葉によって広く伝えられます。多様な言葉で知識をより深めることができます。その知識がまた新しい言葉を生み出し、その言葉が新たな知識を構築していきます。そんな風にしてギリシャ哲学は発展していきました。言葉を使いこなし知識を身に着けていくことは、人々にとっての誇りだったのです。けれどもときに知識は人を高ぶらせ、その知識をひけらかして他人を貶めてしまうことがあります。言葉はときに他人を攻撃し、鋭い刃のようにその心を傷つけてしまうこともあります。今の私たちにとってもそれは身近な問題で人の命を奪ってしまう事件に発展してしまうこともありますが、それは新約聖書の時代でも同じでした。
パウロは<あらゆる言葉、あらゆる知識>は<神の恵み>の賜物だと述べています。それはけっして、自分で編み出したり身に着けたりしたものではないということです。言葉を自分の力にしてしまったとき、人は言葉を使いこなしているように思えて、実は自分自身その言葉に絡め取られてしまっています。知識を自分のものにしてしまったとき、実は自分自身がその知識に囚われてしまっているのです。ですからどんな言葉も、どんな知識も<キリストに結ばれ>てこそ<豊かにされ>る、<キリストについての証しが・・確かなもの>になるのです。
そしてそれはきっと、キリストについての証しだけではないと思います。私たちが為すあらゆることについての証しもまた、キリストに結ばれたならば確かにされる。自分を高ぶらせることなく人を傷つけることなく、神様の御前で自分を証しすることができるのではないでしょうか。それは私たちに<何一つ欠けるところが>ない神様の賜物によって、主イエス・キリストが私たちに現れてくださるからです。私たちを<しっかり支えて>くださるからです。そのような<わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられ>るよう、願う者でありたいと思います。