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「谷は身を起こし、山は身を低く」イザヤ書40:3~5/マタイによる福音書3:1~8 日本キリスト教団川之江教会 新年礼拝メッセージ 2025/1/5

エピファニーを迎える前に

 教会の暦では、明日1月6日は公現日です。「現れる」という意味のエピファニーの訳語です。ただエピファニーには「本質を明らかにする」というニュアンスも含まれているそうなので、ただ姿を現したというだけではない深い意味が込められています。クリスマスの関連でいえば、公現日は三人の博士が主イエスにまみえた日とされていて、12月24日のクリスマスイブから明日の公現日までをクリスマスの期間としています。
 ただエピファニーは、歴史的にはクリスマスが祝われるようになるより前から憶えられてきました。ではエピファニーは何の日だったのかというと、成人した主イエスがヨルダン川のバプテスマのヨハネの前に現れたことを記念する日でした。言い換えればエピファニーは主の洗礼の日、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことをお祝いする日だったのです。
 「だった」と言いましたが、今でも公現日は「博士来訪の日」と「主の洗礼の日」の二重の祝日となっています。それで聖書日課ではクリスマスの次の日曜日・降誕節第一主日に博士の来訪を覚え、公現日の次の日曜日・公現後第一主日に主イエスの洗礼を覚えるのが通例となっています。この二つの日曜日は曜日の巡りの関係で連続することもあれば、今年のように一週空く年もあります。その場合は、その空いた日に主イエスが現れる前のヨハネ自身のことが取り上げられるわけです。今年のアドベントではルカによる福音書に従って、主イエス誕生の道備えとしてのバプテスマのヨハネ誕生を憶えました。そのことにも因んで今日は主イエス公現前にヨハネの告げた、新しい時代の幕開けを告げるメッセージに耳を傾けたいと思います。

ヨハネは荒れ野で何を叫んだのか

 1世紀ごろのユダヤ教は、いくつかの宗派に分かれていました。そのうち新約聖書には、二つの宗派の名前が出てきます。サドカイ派とファリサイ派です。サドカイ派はエルサレム神殿を中心に祭儀を重んじる人たち、ファリサイ派は律法を守ることを一番に重んじていました。この二つの宗派の名がこの後主イエスと対立する場面で出てくるのは、この二つの宗派が当時の権力と結びついていたことと関係しているのかもしれません。神殿祭儀を重んじるサドカイ派は祭司長たちと関係が深く、律法を最重要視するファリサイ派は律法学者や最高法院の議員が大勢いたのです。一方で新約聖書には名前が出てきませんが、もう一つエッセネ派という主要な宗派がありました。この派は世俗の権力とは一線を引いて、荒野での修行生活をしていました。その中でも禁欲的な厳しい生活を課すグループもあれば、権力社会で隅に追いやられた人たちの受け皿となるグループもあったようです。バプテスマのヨハネのグループも、そんなエッセネ派の一つだと考えられています。
 ヨハネは<らくだの毛衣を着(て)、腰に皮の帯を締め>ていたと言われます。この出で立ちは、エリヤを連想させます(列王記下1:8)。旧約聖書に記され生きたまま天に上げられたとされて、再来を期待されていた大預言者エリヤです。預言者マラキは、エリヤについてこう預言しています<大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/この心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。>(3:23-24)。エリヤのこの務めに、主なる神様を父とする主イエスをこの世を破滅から救う宣教者として送り出そうとするバプテスマのヨハネの務めに重ね合わされています。
 もう一つ、福音書はイザヤの預言にも言及します<荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』>。福音書は、この荒れ野で叫ぶ者がバプテスマのヨハネだと証言しています。だとすると荒れ野で叫ぶ声が命じる相手は、主イエスだということになります。<主の道を整え、その道筋をまっすぐに>する人は主イエスなのです。
 福音書が引用したイザヤ書40章には、主イエス宣教の目的がさらに述べられています。それは谷が身を起こすこと、山と丘が身を低くすること、険しい道が平らになること、そして狭い道が広くなることです。低みに置かれて抑圧された人が身を起こし、高ぶっている人が身を低くする、それは差別や格差がなくなることを表しています。そして険しく生きづらい社会ではなく平らで安心して生きられる社会になること、また生きる選択肢が狭められた希望のない社会ではなく多くの人が同じ道を選べる希望ある社会になることが預言されています。イザヤは、それが実現するところに主の栄光が現れているのだと預言しました。そして、その栄光を人は共に見ることになるのだと預言していたのです。福音書はそのイザヤの預言を、バプテスマのヨハネの口に上らせました。そしてその預言の実現を、主イエスに託したのです。いま差別や格差によって生きづらくさせられている人たちが、安心して希望をもって生きられるようになる。主イエスによってそれが実現しようとしている、<天の国が近づいた>のだとヨハネは告げているのです。

ヨハネのバプテスマからイエスの福音宣教へ

 ヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けていました。ヨハネの所には<エルサレムとユダヤ全土から>、またその周辺の<地方一帯から>大勢の人が訪れていました。その多くはサドカイ派やファリサイ派の人たちから、神様の怒りから免れないとされていた人たちでした。なぜなら彼らはたとえば貧しさのゆえに、病気や障がいがあるために、またエルサレムから遠く離れたところに住んでいるために、神殿に詣でて献げ物をすることができなく、あるいは律法に定められた生活ができないでいたからです。ヨハネはそんな人たちが神様の怒りから免れるために、悔い改めのバプテスマを授けていたのでした。ヨハネのバプテスマにはそういう経緯がありましたから、彼らを苦しめていた当のファリサイ派やサドカイ派の人たちがバプテスマを受けにやって来たとき、怒りをあらわにしたのです。
 主イエスの宣教がエッセネ派のヨハネの所から始まったことは、必然だったのだと思います。社会の中で弱くされていた人たちに神の国の福音を伝え権力と結びついたサドカイ派やファリサイ派の人たちと対決した主イエスの宣教は、やはりサドカイ派やファリサイ派の人たちと一線を画し彼らの社会で低くされていた人たちの受け皿となっていたエッセネ派によって準備されていたからです。このようにして、主イエスの福音宣教は始まっていったのです。

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広瀬満和
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