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「万物が新しくなるその時」申命記18:9~17/使徒言行録3:21~4:4 日本キリスト教団川之江教会 聖霊降臨節第4主日礼拝メッセージ 2023/6/18

 ペンテコステの日を境にしてエルサレムの町は、世界が一変したかのような明るさがありました。それまで行方知れずだった主イエスの弟子たちが、突然人前に姿を現して、皆が死刑に追いやった主イエスを神様が死者の中から復活させられたと告げたからでした。
 振り返ってみると一か月ほど前のエルサレムは、異様な空気に包まれていました。主イエスがなぜ十字架刑に処せられたのか、冷静に考えてみるとよくわからないのです。主イエスや弟子たちが悪事を働いたわけではありませんし、社会を混乱させていたわけでもありませんでした。それどころか人々は、むしろ主イエスを歓迎していたのです。主イエスは孤独にさせられた人たちに自ら積極的に声をかけ、共に食事をする人でした。長く病に苦しみ障害を負ってきた人たちを、癒してくれる人でした。恐れと不安に包まれていた人たちに、安らぎを与えていました。主イエスが告げる神の国の新しい福音は、社会の中で弱者とされ虐げられていた人たちに明るい希望を与えていたのです。ところが急に風向きが変わったように、どんよりとした雲に覆われていくように、人々の心に暗い影が落ちていきました。主イエスが逮捕され裁判にかけられると、死刑になるのが当然という流れた作られていきました。そして何をしたわけでもない主イエスを十字架につけろと叫び、代わりに暴動を起こし殺人を犯して投獄されていた犯人を釈放させたのでした。この異様さに気づいていた裁判官のピラトでさえ、この流れを止めることができませんでした。そして主イエスは、十字架に架けられてしまったのです。
 その翌日から、エルサレムの町では過越の祭が始まりました。昨日の出来事などなかったかのように、昨日の出来事を忘れようとするように、町は祭り一色となりました。主イエスの弟子たちは行方をくらまして、本当になにもなかったかのようでした。3日経って主イエスの遺体が墓から消えたという噂も聞こえてきましたが、もう誰も気に留めようとはしませんでした。もちろん主イエスの弟子たちがそれから40日の間、人知れず復活の主イエスと出会い語り合っていたことを私たちは知っています。そして50日後の五旬祭の日に、聖霊に押し出されて人々の前に立って語り始めたことも私たちは知っています。けれどもエルサレムの人々にとっては、それは突然のことでした。50日間行方知れずで、その存在さえ忘れようとしていた主イエスの弟子たちが、突然姿を現して自分たちに語りかけてきたのです。
 弟子たちが語るその話は、忘れようとしていた50日前の出来事を思い出させるものでした。「あなたがたが殺した<命の導き手>を、神様が死者の中から復活させてくださった」。「あなたがたが殺した」と突き付けられるのは衝撃でしたけれども、今考えるとそういうことだったんだと思えるようになっていました。あの日の出来事が別の角度から見えて、忘れようとしても心に引っ掛かっていた暗い影をもう一度見つめ直すことになりました。そして「その人を神様が死者の中から復活させてくださった」という弟子たちの言葉は、その影に光を当てたのでした。

 ところでペトロは、旧約聖書を引いて人々にメッセージを伝えています。神様がモーセやサムエルを通して告げたこと、神様がアブラハムに告げられたことを、これから起こること、これから為すべきことの証しとして伝えています。今日はその中から、モーセの部分を詳しく見てみたいと思います。ペトロは引用したのは申命記18章でした。
 当時の社会では、いろいろと神に伺いを立てる人たちがいました。<自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者>など。私たちには既にいかがわしさが先に立ちますが、当時は一般に行われていて人の心を捉えていました。けれども主なる神様は<これらのことを行う者をすべて・・いとわれる>と言われます。ただこれらの方法すべてが、ただちにいかがわしいと断じることはできません。現代でも真面目に行われていて、心のケアとして有効に用いられている場合もあるからです。ただ、行う人に権威が与えられているようなものには気をつけた方がいいのも確かです。聖書は人に権威を与え、人の思惑が入り込むようなものに対して慎重な態度を取ります。人が神ではないものを神として、絶対的に従ってしまうからです。実際、そういった手法で人の心を動かして惑わすカルトが今も後を絶ちません。そういう恐れのあるものを、聖書は予め厭うべきものとして退けるのです。現代風に言えば、専門家とか学識者と言われる人たちや政治家などがその範疇に入るのかもしれません。もちろんその人たちが皆いかがわしいとは言いませんが、私たちに知識がなかったり情報が入らなかったりする時、専門家に伺いを立てれば大丈夫という態度は避けなければならない、そのことが言われているのだと思います。
 さてこのとき、イスラエルの民は<「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と・・主に求め>ています。それまで人が神様を見たり声を聞いたりしたら、死んでしまうと言われていました。ですから<死ぬことのないように>と願っているのは、神様の声を聞き、神様の大いなる姿を見せてくださいと願っていることです。厭うべきものに目や耳を奪われ心が惑わされないように、神様をしっかりと見て、その声をしっかりと聞かせてくださいと願ったのです。主なる神様は<彼らの言うことはもっともである>と応えられました。そして<あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる>と約束され、<あなたたちは彼に聞き従わなければならない>と言われたのです。
 この話を聞いたエルサレムの人たちは、自分たちの身に起こったことが腑に落ちたのだと思います。神様が姿を見せ、その声を聞かせるために主イエスを立てられたこと。だから自分たちは主イエスに聞き従わなければならなかったこと。でも50日前、自分たちが<いとうべき>者に心惑わされ従ってしまったこと。そして善と悪の判断がつかなくなって極悪人を釈放し、その主イエスを死刑にしてしまったこと。その事に気づき理解したエルサレムの人たちは、自分たちのこれまでを悔い、これからを改めて歩み直すことを決意したのです。

 そんな折、復活の主を証ししていたペトロとヨハネが逮捕されてしまいます。逮捕したのは<祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々>でした。翌日に行なわれる取り調べには<議員、長老たち、律法学者たち>が顔を並べる予定になっています。そんな彼らは、主イエスを逮捕し裁判にかけた、その人たちでした。ペトロとヨハネの逮捕は、まさに50日前の再現と言えます。あのとき主イエスを逮捕し裁判にかけ死刑に追いやった彼らは、50日後に再び現れて主イエスの福音を証しし始めたことが疎ましくてならなかったのでしょう。けれどもエルサレムの人たちは、50日前の過ちを繰り返すことはありませんでした。少なくとも五千人の人たちが、ペトロとヨハネが逮捕された後も<二人の語った言葉を>信じ続けたのでした。今また困難が降りかかって来たけれども、<万物が新しくなるその時>が来ることに希望を持って、彼らは歩み出したのです。

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広瀬満和
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