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「密雲の中に射し込む光」エゼキエル書34:11~16/使徒言行録8:1b~8 日本キリスト教団川之江教会 聖霊降臨節第5主日礼拝メッセージ 2023/6/25

 6月26日は、第二次世界大戦下の日本でホーリネス弾圧起こった日です。81年前の出来事ですが、けっして今の私たちに無関係な話ではありません。マルティン・ニーメラーというドイツの牧師が残した有名な言葉があります。ナチス政権による市民迫害が起きた時、ドイツの教会はナチ派と反ナチ派に分断されていくのですが、ニーメラー牧師はナチス政権を批判する告白教会の指導者でした。そんなニーメラー牧師が戦後になってから何千人もの前で、自分を振り返ってスピーチしたときの一節だと言われています。「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になったが、自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃し、自分の不安は少し大きくなったが、やはり自分は社会主義者ではなかったので何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人がというふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増していったが、それでも何もしなかった。それからナチは教会を攻撃したとき、自分はまさに教会の人間だったので何事かをしたが、そのときには既に手遅れだった」。そしてニーメラー牧師は1937年にナチ政権に逮捕され強制収容所に収容、翌年に告白教会は事実上活動停止に追い込まれたのでした。
 
 それから4年後の1942年、ナチスドイツと同盟を組んでいた日本でも教会に対する弾圧が起こりました。6月26日早朝、全国各地のホーリネス系教会に警察が踏み込み牧師96名が一斉に逮捕されました。その翌年にも第二次検挙が行われ、最終的に116名が逮捕81名が裁判にかけられ、19名が実刑を受けました。また7名が獄死されています。
 最初に一斉検挙が行われた前の年1941年に、日本のプロテスタント教会は宗教団体法によって一つの組織「日本基督教団」にまとめられていました。教会を監視、統制しやすくするためです。今考えると、そのときから弾圧は始まっていたと言えるでしょう。実際に逮捕され裁判にかけられたのはホーリネス教会の牧師たちでしたけれども、第二次検挙と相前後して政府は日本基督教団に対し、ホーリネス系教会の認可取り消しと教師の辞任を行わせたのです。それはあくまでも国による強制処分ではなく、教団の意思決定によるものとされました。もし日本基督教団が、これが教団に対する弾圧だと認識していたら、政府の通知に抵抗していたかもしれません。けれども教団は、これをホーリネス系教会への弾圧だと捉えました。ホーリネス系教会の特殊性が弾圧を招いたのだと捉えたのです。「これを御当局において処断して下さったことは、教団にとり幸いであった」と教団幹部が言い放ち、ホーリネス系教会の教師に辞職を迫り、教会を強制的に解散させたのでした。
 政府にとっては、どっちに転んでもよかったのだろうと思います。もし教団が自らへの弾圧と捉えて抵抗すれば、今度は教団幹部を検挙して全体を潰していたかもしれません。実際にはホーリネス系教会を切り捨てた教団が残りましたが、それは政府に従順な教団でした。政府にとってはどっちに転んでも、抵抗の芽を摘み取る目的は果たせたのです。でも教団にとっては、大きな分かれ道だったのだろうと思います。政府の弾圧に抵抗すれば、もっと大変な危機に晒されたのかもしれません。でも見せしめに怯え政府の意のままに振舞った教団は、ホーリネス系教会を失ったと同時に更に大切なものを失ってしまったのではないでしょうか。
 
 エルサレムで信徒を着実に増やしていた初代教会は、伝統的なユダヤ教徒たちから恨みと妬みを買っていました。恨んでいたのは、キリストである主イエスを十字架につけたことを悔い改めるよう迫られていたからです。そして妬んでいたのは、そんな初代教会が大きく成長していたからです。そのことによって、伝統的なユダヤ教の権威が貶められたと感じていたのです。ちなみに「伝統的なユダヤ教徒」と呼んだのは、このときの初代教会の信徒たちは自覚的にユダヤ教徒の一員だったからです。言い方を変えれば、ユダヤ教団の中で特殊な人たちだったとも言えましょう。中の人たちだからこそ、その特殊性に我慢がならなかったのかもしれません。
 そんな伝統的なユダヤ教徒たちは、初代教会指導者のステファノに狙いを定めます。ステファノは、十二使徒を補佐する七人衆の一人でした。なかでも彼はとりわけ弁が立ち、人々からの人気も高かったのです。ステファノはあらぬ嫌疑をかけられて逮捕され、最高法院に訴えられます。そこでステファノは、堂々とした弁論を繰り広げます。ユダヤ教徒として確かな知識と理解を示し、むしろ伝統的なユダヤ教徒たちの間違いを指摘して、神様がキリストとされた主イエスを称えたのです。反論することができなくなった原告たちは<大声で叫びながら耳を・・ふさ>ぐことしかできず、感情を爆発させてステファノを<都の外に引きずり出し>殺害してしまったのでした。
 このことが引き金となって、エルサレム教会に対する<大迫害>が引き起こされます。伝統的なユダヤ教徒たちによる大弾圧です。初代教会の信徒たちの<家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して>逮捕、投獄していったのです。弾圧者の中には、キリスト者に回心する前のサウロもいました。
 逮捕を免れた初代教会の信徒たちは、エルサレムを出て地方へと散り散りに逃げるしかありませんでした。ただ殺害されたステファノを葬るために、何人かはエルサレムに残ったようです。そしてその人たちを守るためか、使徒たちもエルサレムに残りました。もちろん安全が保証されていたわけではないのでしょうけれども、使徒たちは彼らの務めを果たそうとしたのでしょう。
 そして<地方に散って行った>人たちも、ただ逃げたのではありませんでした。<福音を告げ知らせながら巡り歩いた>というのです。その一人フィリポは、殺害されたステファノと同じ七人衆の一人でした。フィリポが向かった先サマリアは、ユダヤ人が忌み嫌っていた地域でした。だから追っ手もたぶん来ないだろうという安心もあったのかもしれません。でもフィリポもまたユダヤ人ですから、彼にとっても踏み入れたくない場所のはずです。でも福音に生かされたフィリポは、そんな伝統や慣習から解放されていました。もはや差別や偏見に囚われていなかったのです。一方でサマリア人たちにも、ユダヤ人に対して差別や偏見がありました。それは<汚れた霊に取りつかれた>ようなものでした。でも福音に生かされたフィリポに導かれて福音に触れたサマリアの人たちもまた、そんな囚われから解放されていったのです。
 <大迫害>に遭ってエルサレムを逃げ出した初代教会の人たちは、密雲の中をちりぢりになった羊のようでした。でも彼らは、その羊の群れを探し出し救い出してくださる神様を信じていました。密雲の外側で輝いている光が、密雲の中に射し込んでくるのを感じていたのです。だから心が折れそうになっても、彼らもまた彼らの務めを果たしていくことができたのです。
 
 日本基督教団がホーリネス系教会に対して犯した過ちを認めて謝罪したのは1984年、終戦から39年も経ってからのことでした。それからさらに39年経ちましたけれども、教団は今もなおこの過ちに真摯に向き合おうとしているようには思えません。「ホーリネス弾圧記念日」はホーリネス系教会で憶え続けられていますが、日本基督教団の行事暦には今も定められていません。教団の歴史の中での「重要事項」が記載された「教団の記録」には、81年前の弾圧の事実は記録されていますけれども、1984年に謝罪したことは記されていないのです。「ホーリネス弾圧記念日」は、けっしてホーリネス系教会だけの記念日ではありません。むしろ政府の意に沿ってホーリネス系教会を切り捨てた教団と、その側に立たされた教会が憶えるべき記念日です。でなければ、新たな弾圧・新たな分断を画策するたくらみに気づく目が養われないからです。そして、同じ過ちを犯すことになりかねないのです。密雲の中に射し込んでくる光を感じとるために、この記念日を大切に憶え続けたいと思います。

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