見出し画像

「信仰のない、よこしまな時代に」民数記14:26~30/ルカによる福音書9:37~45 日本キリスト教団川之江教会 受難節第四主日礼拝メッセージ 2023/3/19

 ある日主イエスは、祈るために山に登って行かれました。主イエスは時折、人里から離れて一人で祈られることがあるのです。でもこのときはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子を連れておられました。かといって、四人で一緒に祈るというのではなかったようです。途中で弟子たちを待たせて、主イエスは少しばかり先に進んでやはり一人で祈っておられたのです。その間弟子たちは何もすることがありませんでしたから、次第に眠気が迫ってきます。うとうとしながらも何とか眠気をこらえていますと先の方で祈っておられた主イエスの姿が輝いて、その主イエスの傍に二人の人が立っていて互いに語り合っているのが見えたのです、その二人がモーセとエリヤだということに気づいたペトロは、何が起こったのかもわからないまま<すばらしいことです>と叫んでいました。そして三人のために<仮小屋を三つ建てましょう>などと口走っていますと、雲が立ち込めてきて三人はその雲の中に隠れていきます。そして雲が晴れたときモーセとエリヤの姿はなく、いつもの姿の主イエスがそこにおられるだけでした。それでもペトロたちはまだ興奮冷めやらぬ感じでしたけれども、うまく言葉にすることができないまま無言で山を下りて行ったのでした。
 そのとき残り九人の弟子たちは、山のふもとの村で大勢の群衆に囲まれていました。その中の一人の人が、てんかんを患った息子を連れて来ていたからです。当時てんかんは、悪霊に取り憑かれたせいだと考えられていました。なので息子の父親は、主イエスに悪霊を追い出してもらおうと思ってやって来ていたのです。でも主イエスは山に登ってしまっていてそこにはおられず、いるのは九人の弟子たちだけでした。「それならあんたらでいいから、この子に憑いた悪霊を追い出してやってくれ」。そんな言い方だったかどうかはわかりませんけれど、一刻も待ちきれない父親は弟子たちにそう頼みます。弟子たちは一瞬戸惑いましたけれども、やってみましょうと引き受けることにします。というのも前に主イエスから<悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能>(9:1)を授かっていたからです。そして主イエスから遣わされて、弟子たちだけで村々を巡り歩いて福音を告げ知らせたり病気を癒したりしたことがあったのでした。でも今回は悪霊を追い出すことができませんでした。引き受けたのにできなかった、弟子たちは途方に暮れたことでしょう。人々は騒然となってきます「あんたらにはできないのか、イエス先生の弟子なのに」「いや弟子だからできないんだろう、先生でないと無理だ」。あれやこれやで大騒ぎになってしまいました。

 そこに山を下りて来た主イエスと三人の弟子たちが戻ってきました。待ちかねていた大勢の人たちは、主イエスを出迎えます。そこに先ほどの父親が人ごみの中から大声で叫びました<先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。・・悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子さんたちに頼みましたが、できませんでした>。周りにいた人たちも、口々に同じように頼んだのでしょう。九人の弟子たちは、何も記されていないのでわかりませんが、すがるような眼で主イエスを見つめていたのでしょうか。そんな様子に、主イエスはこう言われます<なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか>。普段は優しいイメージの主イエスですが、時々厳しい言葉を口にされます。なかでも今日は<いつまで・・あなたがたに我慢しなければならないのか>と、ほとほと呆れられてしまったような、突き放されているような思いにさせられて少し辛く感じるかもしれません。
 ところでこの厳しめな主イエスの言葉は、誰に向けられているのでしょうか。父親にでしょうか。群衆皆にでしょうか。それとも九人の弟子たちにでしょうか。主イエスはとりわけ弟子たちに対して厳しく言われることが多いので、弟子たちが悪霊を追い出せなかったことに対して言われているのかもしれません。ではなぜ弟子たちは、悪霊を追い出せなかったのでしょうか。<なんと信仰のない>と主イエスが言われていますから、弟子たちが信仰を失ったせいで悪霊を追い出せなかったのかもしれません。前に主イエスから力と権能を授けられて悪霊を追い出したことができていたので、今回もできるだろうと自分の力を過信したということもあるでしょう。またこのときは既に主イエスが苦しみを受けて殺されることを主イエスから予告されていたので、不安を感じて信仰が萎えていたということもあるでしょう。いつまでも主イエスが一緒にいられないことを伝えているのに、甘え切ってしまっている弟子たちを叱咤激励しているのかもしれません。ただいずれにしても、九人の弟子たちの様子が何も記されていないことが気にかかります。分かっているのは人々が主イエスを出迎えたことと子どもが癒されたことに心を打たれたこと、そして父親が主イエスに向かって言ったことだけだからです。

 では主イエスの厳しめな言葉は、父親に向けられているのでしょうか。たしかに主イエスの言葉は、父親が主イエスに言ったことに答える形になっています。また厳しめの言葉に続けて<あなたの子供をここに連れて来なさい>と、これは父親に向かって言っていますから全体が父親に向けられていると考えるのが普通かもしれません。だとしたら主イエスはなぜ、この父親に<信仰のない、よこしまな>と言われたのでしょうか。
 この父親は、てんかんで苦しんでいる一人息子を癒してもらいたくて主イエスのところにやってきました。一人息子のためにイエス先生になんとかしてもらいたい、その思いに嘘はなかったと思います。すがる思いで主イエスのところにやって来たのでしょう。でも主イエスには会えませんでした。そこにいたのは、九人のお弟子さんだけだったのです。そのとき父親は何を思ったでしょうか。諦めて帰りたくはない、いつ戻って来られるかわからないイエス先生も待ちきれない、しょうがないからお弟子さんにでも頼んでみるか、そんな<よこしまな>思いがあったとは言えないでしょうか。主イエスが戻って来られたときに父親が言った「お弟子さんには<できませんでした>」という非難めいた言葉に、そんな思いが見え隠れしてはいるとは言えないでしょうか。
 旧約の民数記から示されたのは、出エジプトをしたイスラエルの人々が約束の地カナンに向けて荒れ野を旅していた時のことです。それはとても厳しい旅でした。飲む水がない、食べる物がない、人々はモーセやアロンに対して不平を言っていました。その都度神様は水を湧き出させ、マナを降らせて人々を飢えや渇きから救っていたのです。そして目指すカナンに近づいたとき、カナンには<住み着こうとする者を食い尽くすような・・巨人>がいるという情報が流れて、人々はまたモーセとアロンに不平をぶつけたのです<エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れてきて、剣で殺そうとされるのか>(14:2-3)。それに対して神様は<この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか>(14:26)と答えられています。不平が尽きないのは、願いが自分勝手だからです。助けてくださる神様に感謝するのではなく、願いが叶ったことを喜ぶなら、叶わなければ不平が出るでしょう。でも目の前の願いが叶うときも叶わないときも、神様はいつも私たちと共にいて私たちを見ていてくださっています。嬉しいときは共に喜び、苦しいときは共に苦しんでくださっています。その信仰を失ったとき、私たちは<よこしまな>思いに囚われてしまうのかもしれません。

 民数記に記された神様の言葉と、福音書の主イエスの言葉はとてもよく似ています。それは不平を言うイスラエルの民と不平を言う父親や大勢の群衆が、どちらも同じ<よこしまな>思いに囚われているからでしょう。ただ主イエスは、よこしまな<時代>と言われているのは、特定の個人がどうこうではなく神様を信頼しなくなった世の中全般を憂いておられるのでしょう。そして民数記の神様と福音書の主イエスには、決定的な違いがあります。民数記の神様は<不平を言った者・・は・・あなたたちを住まわせると言った土地に入ることは出来ない>と言われます。自分勝手な思いで不平を言う者を、神様は助けられないということです。でも福音書の主イエスは違いました。不平を言う父親や群衆、また自分の力を過信した弟子たちに向けて、それは<信仰のない、よこしまな>思いだと厳しく諭しながらも<汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しに>なられたのです。つまり神様は不平を言う者を裁かれる方だとされていた時代に、主イエスは赦してくださる神様を示されたのです。その神様の<偉大さに>人々は<心を打たれた>のではないでしょうか。
 でもだからといって、私たちは自分勝手に不平を言っても良いというわけではないでしょう。なぜなら主イエスは<我慢>をされておられるからです。主イエスによって、私たちの罪は赦されました。けれどもそれは、私たちは罪を犯してもいいということではないはずです。神様は私たちが共にいてくださる神様を信頼し感謝して、よこしまな思いから解放されるまで裁きを<我慢>してくださっています。そのために御子イエスは、栄光に輝く山の上からこの<信仰のない、よこしまな時代>に降りてきてくださいました。私たちは、その恵みに応えて生きる者でありたいと思います。

イエス・キリストの福音をより広くお伝えする教会の働きをお支え下さい。よろしくお願いいたします。