「私たちは皆、変えられる」コリントの信徒への手紙一15:50~58 日本キリスト教団川之江教会 復活節第三主日礼拝メッセージ 2023/4/23
パウロがコリントの信徒に宛てた手紙では、私たちに与えられた復活の希望が伝えられています。復活の希望というのは、神様が終わりの日に私たちに新しい命と体を与えてくださる、私たちは死んだらそれで終わるのではなく終わりの日に<神の国>で新しく生かされる、ということです。この「終わりの日」ということについて、私たちはどんなイメージを持っているでしょうか。どんなイメージと言っても漠然とし過ぎて、答えにくいかもしれません。例えばもう少し絞って言うとしたら、「終わりの日」はいつ頃のことだと思っているでしょうか。今日明日のことでしょうか。数か月先とか数年先でしょうか。それとも、いつかはわからないけれど自分が死んだ後のことだろうくらいに思っているでしょうか。それぞれに思われていることがあろうかと思いますが、たいていは自分が死んだ後のことというイメージを持っているのではないでしょうか。この命を生きている間は、おそらくこの世界も私たち自身も何も変わらない。そしてやがて、私たちは誰しもこの地上での生涯を終える。でもいつか「終わりの日」が来た時に、私たちは復活して永遠の命に生かされる。だいたいそういうイメージではないでしょうか。
もちろん、そういうイメージが間違っていると言いたいわけではありません。でも間違っていないとも言えません。「終わりの日」はまだ来ていませんし、誰もまだ経験したことがないからです。ただ少なくとも、パウロはそれとは違うイメージを持っていました。パウロだけではなく、パウロに導かれたキリスト者たちは違うイメージを持っていました。そのイメージとは、「終わりの日」はパウロたちが生きている間に来るということです。それも淡い期待というようなものではなく、強く確信していたようなのです。結果的には、パウロたちの確信は期待外れに終わってしまいます。そして以来二千年の間、キリスト教会は終わりの日が来るのを待ち続けているわけです。だからでしょうか、私たちはパウロたちと同じ期待外れにならないように、「終わりの日」が来るのは自分たちが死んだ後のことというようなイメージを持つようになったのかもしれません。そしていつしか聖書の記述自体を、遠い未来のことを予言しているように考えるようになったのかもしれません。
だとしたら、私たちはその前提をひとまず変える必要があります。そうでないと私たちは、聖書のメッセージを誤解してしまうかもしれないからです。言葉の意味を取り違えたり、意味が分からないままやり過ごしてしまったりするかもしれないからです。少なくともパウロは、「終わりの日」は自分が生きている間に来ると思っていた節があるわけです。であれば、私たちもそれと同じイメージでパウロの使信を読む必要があります。イメージの前提を変えれば、パウロの使信もまた違った景色で見えてくるでしょう。そしてひょっとしたらパウロの期待は外れてしまったのではなく、イメージは違ったのかもしれないけれども神様はパウロの期待に応えられていることに導かれるかもしれません。そして実は私たちは「終わりの日」を、遠い未来に追いやっている場合ではないのかもしれないのです。
この手紙をパウロは、相当に思いを込めて書いているようです。<わたしはこう言いたいのです>、この一言だけでもパウロの熱を感じます。ここは誤解してほしくはない、間違って受け取ってほしくない。これから言おうとしていることに、パウロが確信を持っていることが窺えます。<肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません>。<肉と血>は血が通っている肉体、生きている私たちのこの体のことです。この肉体には寿命がありますから<朽ちるもの>です。朽ちる者である生きている私たちは、朽ちない神の国を受け継ぐことはできません。では私たちが<神の国を受け継ぐ>ためには、朽ちる肉体から離れなければなりません。つまりそれは死んだ後ということになります。パウロの時代にも、一般的にはそう考えられていたようです。でもパウロは、そんな常識を覆します<わたしはあなたがたに神秘を告げます>。神秘とは、人知では推し測れないような神様の秘密です。神様から与えられたイメージと言い換えても良いでしょう。<わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに・・死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます>。パウロは同じことを二度、少し言葉を変えて繰り返しているのですが、私たちはパウロと同じようにイメージできているでしょうか。
<眠りにつく>とは、死ぬということです。つまり私たちは皆、死ぬわけではないということですけれども、ここではまだ「死なない者になる」わけでもありません。パウロは「眠りについてから<今とは異なる状態に変えられ>る」わけではないと言っています。それは逆に言えば死ぬ前に、つまり私たちの命が尽きる前に<わたしたちは変えられ>るわけで、そのときはすぐそこまで来ているということです。そのときとは「終わりの日」です。<最後のラッパが鳴る>のは、終わりの日が来たことを知らせています。そして終わりの日が来れば<たちまち、一瞬のうちに>変化が起こります。<たちまち、一瞬のうちに・・死者は復活して朽ちない者とされ>、生きている<わたしたちは>そのまま朽ちない者に<変えられ>るのです。このイメージは、私たちのイメージを一新させてくれます。「私たちは死んだ後に終わりの日を迎え、復活して朽ちない者に変えられる」という図式とは別のイメージが与えられます。つまり終わりの日を迎える前に死んだ者は<復活して朽ちない者とされ>るわけですが、その日を生きたまま迎える私たちは死ぬまでもなく、だから復活する必要もなく<たちまち、一瞬のうちに>朽ちない者に変えられるというわけです。
イメージは、あくまでもイメージです。大切なのはイメージに込められたメッセージです。イメージ通りのことが実際に起こらなかったからと言って、そこに込められたメッセージが無意味になるわけではありません。パウロがイメージした通りのことは実際には今はまだ起こっていないと、教会は理解してきました。そして<死者は復活して朽ちない者とされ>るというイメージを今はまだ生きている私たちへのメッセージとして、今も終わりの日を待ち続けているわけです。ただその際、眠りについていない私たちが今と異なる状態に変えられるというイメージを封印してしまったように思います。だからこの封印したイメージを、もう一度活かしてみたいと思います。そうしたなら、私たちはまた別のメッセージを受け取ることができるのではないでしょうか。
<最後のラッパ>がまだ鳴っていないのなら、死者も今生きている私たちも、まだ誰一人朽ちない者とされていないということになります。でも私たちには、それとは違う別のイメージも与えられています。それは先に亡くなった人たちは天に召されて、いま神様の御許で永遠の命が与えられているというイメージです。つまり死者は天上で、既に復活して朽ちない者とされているということです。また私たちが行なう葬儀は、亡くなった方を無事に天に送り届けるためにするのではありません。葬儀を行うときにはもう、その方は御許に召されていると理解しています。天に召されるのは地上の命を終える<とともに、たちまち、一瞬のうちにです>。言い換えればそのとき、その人に最後のラッパが鳴ったのかもしれません。
そういえば私たちは、亡くなった方のことを「永眠者」と言っていました。「言っていました」と申し上げたのは、もう昔のことのような印象があるからです。今は「召天者」という言い方が多いような気がします。11月の第一主日に行なう記念礼拝の名称も、変わってきているように思います。「永眠者」は眠っている者です。今は眠りについていて、最後のラッパが鳴り復活して朽ちない者とされる時を待っているというイメージです。それが「召天者」に変わったのは、亡くなった方に対するイメージが変わったことの証しだと思います。それはこのパウロの使信から受けるメッセージが変わってきたことの証しなのかもしれません。
亡くなった方に、それぞれのタイミングで個別に<最後のラッパ>が鳴ったのだとしたら、今生きている私たちにも、それぞれのタイミングで個別に<最後のラッパ>が鳴ることになります。そしてそのとき、今生きている私たちが<今とは異なる状態に変えられ>るのです。それは、パウロのイメージ通りです。そして先ほどの封印を解いて得られる、もう一つのメッセージです。では<今とは異なる状態>とは、どのような状態なのでしょうか。<肉と血は神の国を受け継ぐことはでき>ないのですから、肉や血のない体に変えられるということなのでしょうか。だとすれば、それはそれで死を意味しているようにも思えてしまいます。
けれどもパウロはそのことについて、また別のイメージを示しています。<この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る>というイメージです。それは朽ちるべきものを朽ちさせてしまうのではないし、死ぬべきものを死なせるのでもありません。朽ちるべきもの/死ぬべきものはそのままで、その上から朽ちないもの/死なないものを着るわけです。つまり<肉と血>の体をもつ私たちがそのまま<主に結ばれ>るなら、私たちは朽ちないものへと変えられるのです。
私たちは、<律法>的なあり方に縛られています。この場合<律法>は、旧約のことを指しているのではありません。旧約であれ新約であれ、モーセの律法であれ主イエスの福音の言葉であれ、文字面に囚われ、一つの解釈にこだわり、秩序を重んじて愛を見失うなら、そこには<死のとげ>が刺さっています。それが<罪の力>となって私たちを朽ちさせているのです。その<とげ>を主イエスは抜いてくださいます。その<とげ>による死を、神様が賜る勝利が飲み込んでくださいます。そして朽ちるものから朽ちないものへと<わたしたちは皆、変えられる>、その恵みに私たちは<感謝>したいと思います。