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「因果律を超えて神は働かれる」 イザヤ書41:10~16/使徒言行録28:1~10 日本キリスト教団川之江教会 公現後第六主日礼拝メッセージ 2023/2/19

 今朝新約から示されたのは、使徒言行録の最終章です。使徒言行録の主人公とも言えるパウロという人の最後の姿が記されています。最後の姿と言っても、パウロの死に際が記されているわけではありません。そうではなくて、言わばパウロの最後の雄姿が描かれていると言ってもよいでしょう。ただこの箇所のパウロは、少し不思議な感じがします。というのも、どこか超人的に描かれている感じがするからです。毒蛇に絡みつかれてもまったく平気で、その様子を見ていた周りの人たちはそんなパウロを<この人は神様だ>と称えています。パウロの方もそのことを否定したり反論したりするでもなく、むしろ彼らが自分たちを<歓迎し・・手厚くもてなしてくれ>ることを喜んでいるようです。そしてパウロは多くの病人を癒し、人々はパウロたちに<深く敬意を表し>たということです。
 どこか主イエスの姿を彷彿とさせます。パウロを神格化しているような、特別な存在に祀り上げようとしているような、そんな感じがして、そういうところに違和感を覚えるのかもしれません。いったいこの出来事を通して、聖書は何を伝えているのでしょうか。

 このときパウロは、容疑者として身柄を拘束され移送されている最中でした。パウロは三度目の宣教旅行を終えて、報告をするためにエルサレムを訪れたときにユダヤの最高法院に訴えられたのでした。罪状は<ギリシア人を境内に連れ込んで>神殿を汚したということでした。総督フェリクスやヘロデ・アグリッパ王にも取り調べられますが、有罪とは認められません。それでも最高法院はパウロの死刑を求め、釈放されたら暗殺に及ぼうとしていました。そのあたり、主イエスの時と事情が似ている感じもしますけれども、ただパウロの場合はここで奥の手を使いました。パウロはローマ市民権を行使して、皇帝に上訴したのです。上訴は認められ、パウロの身柄はエルサレムからローマへと移送されることになったのです。
 移送は船で行われました。地中海を何日もかけて行くのです。でも全行程の中間あたりで、猛烈な嵐に遭ってしまいます。船は二週間漂流し、ある島の砂浜に乗り上げてしまったのでした。そこはマルタ島でした。あの長靴の形をしたイタリア半島のつま先のところから300キロほど沖合にある島です。マルタ島の住民とパウロたちは、お互い言葉が通じなかったようです。でも住民たちは遭難者に対して親切でした。<雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて>もてなしたといいます。
 <パウロが一束の枯れ枝を・・火にくべ>たとき、枝の中に隠れていた毒蛇が熱気に蒸されて飛び出し、パウロの手に絡みついてきます。驚いた住民たちは口々にこう言ったといいます<この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ>。そして住民たちはじっと<様子をうかがって>いました。一方パウロは慌てることなく蛇を<火の中に振り落とし>たので、咬まれずに済み<体がはれ上がる>ことも<急に倒れて死ぬ>こともなく事なきを得ます。それを見た住民たちは、一転して<この人は神様だ>と口々に言い合ったというわけです。ちなみに「蝮」という蛇はニホンマムシとも呼ばれ、日本にしか生息していないのだそうです。それで3年前に出た新しい翻訳聖書では「毒蛇」と訳し直されています。

 さて、マルタ島の住民たちは、<正義の女神>を信仰していたようです。その名前から正義を喜び、悪を懲らしめる女神なのかもしれません。あの激しい嵐の中では船が転覆・沈没して、誰一人助からないこともよくあることだったのだと思います。でもパウロたちの乗った船は壊れることなく漂着して、全員が助かった。それは船に乗っていたのが正義の人たちだったから、<正義の女神>が助けられたのだ。住民たちはそう考えて、パウロたちを<大変親切に>もてなしたのでしょう。
 でもパウロに毒蛇が絡みついたとき、住民たちは考えを変えます。<正義の女神>は正義の人に毒蛇という災いを与えるはずがない、と考えるからです。他の人はともかく、このパウロという人は<人殺し>だから<正義の女神はこの人を生かしておかない>と考えたのです。とりわけ蛇は、悪魔の化身だと考えられていたのかもしれません。でもパウロには<いつまでたっても何も起こらない>ので、住民たちはまた考えを変えます。助かったのだからやっぱり正義の人だった、いや悪魔の化身を退治したのだから<この人は神様だ>。
 こういう考え方を「因果応報」といいます。単純にいえば正しい人は救われ、悪人は滅びるという考え方です。この考え方は時に、人を正しい方向へと促す教育的効果があります。マルタ島の<正義の女神>は、そういう神として捉えられていたのでしょう。でも「因果応報」を裏からみると、救われたならそれは正しい人で、滅びたならそれは悪人だからだという考え方があることに気づかされます。教育的だと思われた考え方の裏には、人を決めつけて裁く思いがあるということです。
 
 では聖書に証しされる主なる神様は、因果応報の神なのでしょうか。私たちの神様は正しい人を救われ、悪人を滅ぼされるのでしょうか。
 古い時代には、そのように考えられていました。はっきりわかりやすいのは、バビロン捕囚です。預言者はユダの民が罪を犯したから、バビロニア帝国に滅ぼされ捕囚の民となったと告げています。それは裏を返せば、バビロニアに捕囚されたユダの民が、こうなったのは自分たちが罪を犯したからだと考えたということです。他にもたとえば、アダムとイブが神様の命令に背いたからエデンの園を追放されたとか、地上に悪が満ちたので神様は洪水を起こして滅ぼしたけれども正しい人であったノアの家族だけは救われたとか、挙げ始めたら多分キリがないでしょう。
 でもそれ以上に因果応報では説明できないことが、私たちの周りでたくさん起こっています。悪人が栄える、理不尽な不幸に襲われる、これもまた挙げ始めればキリがありません。その事に気づき旧約の時代にこの事実に真っ向から挑んだのが、ヨブ記の作者です。ヨブは<無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた>のですが、ある日突然ひどい皮膚病に罹り激しい苦痛に襲われます。ヨブはなぜ自分が苦しまなければならないのか、どんな悪いことをしたからなのかと神様に問いかけます。これは因果応報の考え方ですが、神様は何も答えられません、その先には問いかけの答えがないからです。そして長い長い苦闘の末に神様がヨブに語ったのは、神様の御業は人の理解・知識を超えたものだということだったのです。ヨブはそのことに気づいたとき、苦しみから解かれました。結局ヨブを苦しめていたのは、病ではなく因果応報の呪縛だったのかもしれません。
 預言者イザヤは、バビロンに捕囚されている民に<あなたと共にいる神>を伝えています。罪に対する悪い報いとして捕囚されたはずの民に、<勢いを与えてあなたを助け・・救いの右の手であなたを支える>と告げているのです。イザヤは因果応報を超えて働かれる神の業を伝えています。
 因果応報は、ある意味わかりやすい。良いことをすれば良い結果があり、悪いことをすれば悪い結果がある。一言で説明ができてしまいます。もし神様が因果応報の神であるとしたら、その神は私たちが一言で説明ができてしまうほどの存在だということになります。神様を因果応報の神と捉えることは、因果応報という私たちに分かりやすいルールの中に神様を閉じ込めてしまうことになるのです。人が因果応報の呪縛に苦しんでいる時、同時に神様もその呪縛に苦しんでおられるのです。
 主イエスがいつも共におられた罪びとは、罪を犯した悪人のことではありません。それは因果応報の考え方によって罪びととされた人です。病や障害・貧しさやマイノリティーであることは罪を犯した報いだとされて、多数者の社会から差別されていた人たちです。彼らと共におられ彼らと共に歩まれた主イエスはた、因果応報を超えた神の姿なのです。
 
 パウロが様々な苦難から救われたのは、彼が正義の人だったからではありません。もちろん正義の人ではなかったと言っているのでもありません。正義の人かどうかは関係なく神様がパウロと共にいてパウロを通して働いておられる、今朝の箇所はそのことを伝えています。パウロが行なった癒しもまた、その一つです。マルタ島の住民がパウロのことを<この人は神様だ>と言ったとき、パウロが否定も反論もしていないことに違和感があると最初に言いましたけれども、そもそも互いの言葉が通じていなかったのですからパウロは住民の言ったことがわからなかったのです。ただそのことは、パウロを通して働かれる神様が、マルタ島の因果応報の神とは一線を画していることを表しているのかもしれません。そしてそのことでかえって、<正義の女神>を信じるマルタ島の住民とパウロたちとが対立することなく互いに敬意を表し合う、そんな生き方ができるということを示しているのではないでしょうか。

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広瀬満和
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