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「清いとか汚れとか誰が決めた?」 レビ記14:1~9/ルカによる福音書5:12~16 日本キリスト教団川之江教会 公現後第五主日礼拝メッセージ 2023/2/5

主イエス、レプラの患者を癒す

 主イエスがある町に居られたとき、全身重い皮膚病に罹った人に出会われます。この病気、もともとのギリシャ語では「レプラ」と記されていますが、実際にどんな病気であったのか具体的に知ることはできません。ただ聖書の記述から分かるのは体の表面に症状が現れる病気だということと、一定期間の隔離が必要とされていたということです。だとするなら、町中でレプラの患者と出遭うということはあまり考えられないように思います。何か訳アリの事情でもあったのかもしれませんし、レプラの患者が隔離されているところを主イエスの方から訪ねて行かれたのかもしれません。いずれにしても二人は偶々出くわしたというのではなく、意図的な面会のような感じがします。ですから出会った時はお互い相手が誰か、どういう人かが分かっていたのではないでしょうか。レプラの患者は主イエスに出会うと、すぐさま<ひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と>願い出ます。主イエスはその願いを聞き届けられ<手を指し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると>、たちまちレプラは去ったということです。
 ところで、この患者の願い事は少し奇妙に感じます。<主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります>。素直に考えれば「私を清くしてください」とか「私を治してください」とかいうふうに言うところでしょう。<わたしを清くすることがおできになります>などという言い方は、どこか主イエスの能力を推し量っているみたいな、探っているみたいな感じがして、も一つスッキリしません。単なる訳し方の問題なのでしょうか。それとも何か意味があるのでしょうか。

「清くなる」は「治る」のとは違う?

 人がレプラに罹った時の対処の仕方は、旧約のレビ記に詳しく定められています。旧約はギリシャ語ではなくヘブライ語なので厳密に言えば「レプラ」ではなく「ツァラアト」という言葉ですが、同じ病を指していますので今日は「レプラ」で通したいと思います。ちなみに新共同訳聖書では旧約新約とも<重い皮膚病>と訳されているのですが、誤解を招きかねない訳語として問題提起されてきました。実際4年前に発刊された新しい翻訳聖書では「既定の病」と訳し変えられましたが今一しっくりきませんので、今日のところは比較的中立的に聞こえる「レプラ」で行かせて頂こうと思います。
 さてここには、レプラの患者が<清めを受けるときの指示>について記されています。まず患者は<祭司のもとに連れて来られ>ます。この患者は以前に祭司からレプラの確定診断を受け、<あなたは汚れている>と言い渡されて一定の隔離期間を過ごした人です。隔離期間が終わって再び祭司のもとに連れて来られたのですが、宿営の中にはまだ入ることはできません。外で待機していると、祭司が<宿営の外に出て来て>患者を調べます。その結果患者のレプラが<治っているならば、祭司は清めの儀式を>行います。そして<清めの儀式を受けた>後、今度は自分で着ていた<衣服を水洗いし、体の毛を全部そって>全身を洗って、ようやくレプラの患者は清くなり自分の<宿営に戻ることができる>というわけです。
 ここで注目しておきたいのは、レプラが治ることとその患者が清くなることとは別の事柄だということです。祭司はまず患者を診察し、治っていることを確認したうえで清めの儀式を行っているからです。患者からすれば清めの儀式が行われる時点でレプラは治っている、そして祭司による一連の清めの儀式を受けて初めて清くなることができるというわけです。
 「治る」というのは、純粋に病気の事柄です。そしてレプラの場合、誰にも治すことができないように思われます。一定期間隔離をして、様子を見て、症状が収まるのを待つだけのようです。レプラの診断と隔離措置については祭司が関わりますが、その祭司とてレプラを治すことはしていません。診察をして、治っているかどうかを確認しているだけです。一方「清くなる」というのは、社会的な事柄のようです。レプラが治っていても清くならなければ、隔離が解かれて自分の宿営に戻ることができないからです。では清くなるには、どうすればよかったでしょうか。清くなるには、祭司から清めの儀式を受けなければなりませんでした。最初にレプラだと診断し<あなたは汚れている>と言い渡した祭司から、清めの儀式を受け<あなたは清い>と言い渡されなければならなかったのです。言い換えれば祭司は、患者を清くすることができる唯一の人だということなのです。

コロナ禍で起こっていること

 新型コロナの対応も、これとよく似ているように思います。発熱がありPCRか抗原検査を受けて陽性が出ると、コロナ確定です。いわば「あなたは汚れている」とされて隔離されます。以後一週間、自分で体温と酸素飽和度を計り、一日一度保健所から掛かって来る電話で報告します。正味様子を見て症状が収まるのを待つだけです。今は重症化を抑える薬が処方されますが、最初の頃はそれもなかったと聞きます。7日目の保健所からの電話で体調の最終確認があり、症状が収まっていると「今日で隔離は終わりです」と言われて人と会えるようになります。それはまさに「あなたは清い」と言い渡されたようなものです。濃厚接触者はもっと曖昧で、濃厚接触の要件に合えば検査することなしに隔離されます。そしてその後も症状が出なければ一度も検査をすることなく、規定の隔離期間が過ぎると自動的に解除だと言われます。実際にコロナに罹ったのか罹ってないのかもわからないまま、保健所から「あなたは汚れている」と言い渡されて隔離となり、「あなたは清い」と言い渡されて解放されるようなものです。
 その間いろいろと生活にも仕事にも支障をきたし関係者にも迷惑をかけるわけですが、それでもそれで感染拡大の抑制に寄与するのであれば許容されていいのかもしれないと思わないでもありません。けれども、かつてのハンセン病患者の隔離政策を思うとき、やはり権力者が清いとか汚れているとかを決めることの危うさを感じます。特に社会の秩序とか国家の安定といった伝家の宝刀を振りかざしたとき、一人一人の命、健康、生活、人生が蔑ろにされてしまうからです。

わたしを清くすることがおできになる方

 ユダヤ社会において、レプラの患者を<清くすることが>できるのは祭司だけでした。その前提にあるのは、祭司が神様からその使命を与えられているということです。レビ記に定められているのは人一人の命、人々の健康と生活を救い守るために、神様が祭司に与えた使命と任務なのです。そういう中でこのレプラ患者は主イエスに向かい、あなたこそが<わたしを清くすることがおできになります>と言ったのです。もはや彼にとって、レプラが治るとか治りたいとかは二の次だったのかもしれません。いまや御心に沿って自分たちの命、健康、生活、人生を守り救うことができるのは主イエスだけだと告白し、その御心にわたしも与りたいと願ったのです。その告白と願いに、主イエスは正面から応えられました「御心だ。<清くなれ>」。これはいま与えられている社会の中で、新しいいのちをいただき新たな人生を歩みだしていくための宣言なのです。
 一方で主イエスは、リアリストでもありました。主イエスは彼に<行って祭司に体を見せ>レビ記に定められた通りに<清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と告げているのは、現実的に彼が社会復帰するために祭司による言い渡しが必要だったからです。天の御国に暮らすことだけを望むのならば、理想だけを掲げていればいいのかもしれません。けれども地上に御国を来たらすには、現実的な対応も必要だということなのです。真実を見据え、理想を追い求め、そして現実に即して歩んで行く、そんな私たちの背中を主イエスは押してくださっているのではないでしょうか。

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広瀬満和
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