「隠蔽工作の末路」マタイによる福音書28:11~15 日本キリスト教団川之江教会 復活節第二主日礼拝メッセージ 2021/4/11
日頃から読み親しんでいる聖書を、宗教の教典として見たとき、とても興味深いことがあります。それは教義的に不都合なことや、信仰へと導くのにマイナスに働きそうなことが記されていることです。もちろん全く何も包み隠されずに書かれているというわけではありません。聖書はあくまでも教典としてまとめられたものですから、教会に不利なことをあえて記しておかなくてもいいわけです。盆栽のように見た目を美しくするために余分な枝葉を切り落として、見る人を惹きつければいいのです。でもそれをすると、切りそびれた枝葉とか、切った後の断面とか、何かと痕跡が残ってしまうものです。そしてその痕跡から、切り落として分からなくなったはずのものが、どういうものだったか想像できたりしてしまうものです。聖書にもそういうところが結構あって、学問的な興味がそそられるわけですが、実は信仰的にもそこに却って大切なメッセージがあったりもするので、あながち無視することもできないのです。
今朝新約から示された箇所は、主イエスの復活をなかったことにしようと暗躍する人たちの話、いわば主イエスの復活にケチをつけようとする話です。実際にこういうことがあったのだとしても、主イエス復活の喜びに水を差すような話をわざわざ書かなくてもいいように思います。けれどもこの箇所は、切りそびれた枝葉とか痕跡と言うには、しっかりと書き込まれ過ぎています。むしろ敢えて切らずに残してある、それは内容的には水を差すようなことでも、復活の真実を証しするための大切なメッセージがそこにあったからではないでしょうか。
祭司長たちの誤算
それはイースターの朝の出来事です。二人のマリアが主イエスの遺体が葬られた墓を見に行って、空っぽの墓の前で天使から伝言を受け、弟子たちところへ戻る途中で復活の主イエスに出会ったときに起こっていた、もう一つのエピソードです。恐ろしさの余りに呆然となっていた番兵たちですが、二人のマリアが墓を離れた後、気を取り直して都にいる祭司長たちのところへ戻って行きました。番兵たちはなぜ祭司長たちのところへ行ったのでしょうか。ここはいったん時を戻して、祭司長たちが主イエスを十字架に架けたあと何をしていたのか振り返ってみたいと思います。
主イエスが十字架に架かって息を引き取ったことで、祭司長やファリサイ派の長老たちは一件落着と肩の荷を下ろしていたのだろうと思います。けれどもその直後に、予期していないことが起こってしまいました。それはアリマタヤのヨセフによって、主イエスの遺体が墓に葬られたことです。予定では慣例に従って、遺体は十字架上で野ざらしにされたまま朽ち果てるか谷底に投げ捨てられるはずだったのに、遺体が保存されてしまったのです。そのとき彼らの脳裏を、あることがよぎります。それは主イエスが生前<『自分は三日後に復活する』と言っていた>ことでした。
彼らは集まって善後策を講じ、翌日、その日は既に安息日でしたけれども、ピラトの官邸を訪れます。それは安息日違反だと思うのですが、特権階級には関係のないことだったのでしょうか。それはさておくとして、官邸を訪れた彼らはピラトに<墓を見張るよう>願い出ました。本当に復活するかどうか、見届けようとしたのでしょうか。そうではありません。そもそも彼らは、死者の復活を信じていません。彼らは、主イエスの弟子たちが墓から<死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと言いふらすかも>しれないと考えたのです。もしそうなれば、いったん収まった主イエスを称える世論が、また高まるかもしれません。それは彼らにとって一番厄介なことでした。遺体の安置はピラトが許可したものなので、墓の見張りもピラトの管轄と考えたのでしょう。けれどもピラトは「自分たちの番兵に見張らせればよい」と、ここでも責任逃れの指示を出します。でも祭司長たちは、そんなことはどうでもよく、ピラトの言質が取れたとして、自分たちで墓を塞いだ石に封印をし、配下にいる番兵、すなわち普段は神殿を守っている神殿警備兵に墓を見張らせたのでした。
隠蔽工作
そしてその結果は、先週お話した通り。<大きな地震が起こ>り、墓を塞いでいた石は封印が解けて<わきへ転が>り、稲妻のように輝く<天使が天から降って>来るのを目の当たりにして茫然としてしまったのでした。見張りとしては、これは大失態です。でも、ありのままに報告しなければなりません。報告先はもちろん自分を派遣した祭司長だったわけです。報告を受けた<祭司長たちは長老たちと集まって>、再び善後策を講じます。そして番兵たちに<弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った>という嘘をリークするように命じたのです。
この嘘は、番兵たちの名誉を守るものではありません。見張り中に寝てしまったというのですから、全責任は番兵たちが負うことになります。本当に寝てしまっていたのなら仕方ないですが、これは濡れ衣です。自分たちに濡れ衣を着せるための嘘を自分たちがリークする、番兵たちにとっては堪ったものではありません。断って然るべきところですが、それを出来ないのが宮仕えというもの。そして番兵たちには、祭司長から二つの見返りが与えられました。一つは<多額の金>、もう一つは身分の保証でした。番兵たちの職務怠慢が<総督の耳に>入ったら、総督は形の上では自分の指示で見張りについたことになっていましたから、処罰しないわけにはいきません。でも祭司長が<うまく総督を説得して>悪いようにはしないからと言い含められ、番兵たちは名誉を捨ててでも実利を得る方を選び、嘘をリークしたのです。こうして番兵たちが見聞きしたこと、天使が降って来て主イエスの復活を告げたことは隠蔽され、祭司長たち・長老たちの作ったシナリオが事実として広められたのでした。
けれども最終的に、祭司長たちのシナリオが崩れてしまったことは、歴史が証明しています。主イエスの復活を真実と認めるキリスト教が成立し世界中に広まったこの事実こそが、祭司長たちの隠蔽工作が暴かれたことを示しているのです。いったいどこで逆転したのでしょう。時の権力者は、弟子たちが死体を盗んだと主張します。神殿も、議会も、ローマ総督も、そう口を揃えています。一方主イエスの復活を主張するのは、死体を盗んだとされた当の弟子たちです。しかも実際に目撃したのは、弟子の中でも二人のマリアだけでしたから、言い逃れと言われても不思議はありません。第三者で唯一の目撃者は番兵たちですが、彼らは権力側につく証言をしました。自分の職務怠慢を認める証言ですから、信憑性は高いと思われたでしょう。弟子たちは圧倒的に不利な状況に立たされていました。ではなぜ祭司長たちのシナリオが崩れ、弟子たちの証言が真実だと認められたのでしょうか。それはひとえに、祭司長たちの隠蔽工作が告発されたからだと言ってよいと思います。
真実を隠そうとする力に対抗する
今日の箇所はマタイによる告発です。祭司長たちが番兵たちに多額の金を与え、身分の保証をするために総督と裏取引して嘘の証言をさせ隠蔽工作をしたという告発なのです。それまでは<弟子たちが夜中にやって来て、(番兵たちが)寝ている間に死体を盗んで行った>という話が、<ユダヤ人の間に広まって>いました。金を与えて嘘の証言をさせたとか、権力者同士が裏取引をしたとか、そういったことは関係者しか知らないのですから、それこそ隠蔽されて闇に葬られていたのです。マタイの告発があったからこそ決定的な逆転が起こり、その真実に後世の私たちも与ることができているわけです。
この事実は、真実は必ず白日の下に晒されるという希望を、私たちに与えています。そして隠蔽工作それ自体が、それによってなされた証言の信憑性を失わせるということを明らかにしています。真実を隠そうとする力の暗躍が、真実をより鮮明に浮き上がらせるのです。だからこそ聖書は、この話をあえて書き残したのでしょう。俗っぽい話です。主イエスの復活を聖なる出来事として飾りたいなら、この箇所は切り落としてしまった方がいいでしょう。フィクションならば、それでもいいのです。けれども主イエスの復活は、この俗っぽい現実世界に示された真実です。もし私たちがこの俗っぽい話を隠蔽するなら、主イエスの復活によって示された真実をも闇に葬ることになってしまいます。聖書が書き残したこの俗っぽい話とその末路に、私たちはしっかりと目を向けなければなりません。そうしてこそ私たちの、真実を見抜く目が養われるのです。この俗っぽい私たちの世界で暗躍する、真実を隠そうとする力に対抗することができるのです。そうしてこそ私たちは、この現実世界で主の復活の真実に与ることができるのです。