回避性パーソナリティらしい②久しぶりのカウンセリング

・さぁ、カウンセリングに行きます。そのために予約をします。

・実は何回かカウンセリングには行っていて、その度に自分が回避性パーソナリティであるということを言えずにいる。カウンセラー気づかれているかもしれないが。

・およそ3週間ぶりに、カウンセリングの予約メールを送れた。いくぞいくぞいくぞ。

・行ってきた。
1時間のカウンセリング。
最初の15分は「えーっと…なんていうんですかね…あの…」しか言えなかったと思う。それはめちゃくちゃ怖かったから。回避性ではないかと話すしたら、「勝手に診断名をつけるな」とか「専門的知見から言って、あなたは違います」と言われるんじゃないかと思った。

意を決して言ってみると、否定も肯定もされなかった。というか、今回の1時間、回避性にはほとんど触れられなかった。

今考えてみれば、カウンセラーは医者じゃないから、被カウンセリング者の症状の対話について聞いたり、整理したりは出来ても、診断はしてはいけなかったんじゃないかな、職業として。

なので、ずっとレポートの話をしていた。人が怖いと、評価されることが怖い、自意識と評価がマッチしないかもしれない、本音では嫌われているんじゃないかと思って怖い。とにかく思いつく限りの怖いを言った。

カウンセリングは、ひたすら私が話をして終わった。カウンセラーは、私の話が一段落したら、話をまとめて、一つ質問を投げかけた。それにまた私はたくさん話した。

話をするうちに、私の怖がりの面はだんだんと化けの皮が剥がれてきた感じだった。私は、とにかく人に怒られるのが死ぬほど怖くって、そして特に自分のせいで怒られることが怖いのだ。

レポートや論文はそれにあたる。自分の評価は論文の評価であり、論文の評価は自分自身の評価であると思った。だから、24歳の大学院生の名前に値するような、「きちんとした」レポートを書かないといけないと思い続けているし、今も少し思っている。

今回の対処は、「出来そうなことを出来そうな範囲でとりくむ」だった。なんてシンプルな。
だが、ずっとそれが出来なかったし、今もできないし、将来的にも出来なさそうなので、それをやれるようにしたい。

そこから、「5分だけやってみる」だとか、「ポモドーロテクニック」だとかに続いていくのかしら。

「こうでなければならない」という思いがあまりにも強く、それゆえ少しでもズレたら動けなくなってしまう。中学を登校拒否したことも、就職活動が出来なかったことも、そして今も、底にはこの考えが眠っていそうだ。
面倒くさいは所詮面倒くさい。お風呂は面倒でも入るし、歯も磨く。自堕落な完璧主義。厄介な。

そして、そのさらに奥底にはきっと父がいるんだろう。私の恐怖の源泉。いつ怒られるか分からないから、一緒にいるときは、地雷を踏まないように慎重に過ごしていた。父の望む息子らしく、まあ全然父が望むような息子にはなれていなかったし、今もなれていないが。

いまはとにかく「出来そうなことだけを出来そうな範囲でやる」。これにつきる。

ちなみに今回のカウンセリングは、前回バックレたカウンセラーとだった。
カウンセラーは、私がバックレたことを覚えていた。その上で、
「別に気にしていない」
「体調やその日のコンディションでこれないことはよくある」
「やれないことにも、やれることにも理由を探してみるのが仕事で、怒るのは別に仕事じゃない」と言った。

考えてみれば当たり前なのだが、そう言ってくれるのは嬉しかった。3ヶ月で変わるのは習慣だけで、心が変わるのはもっと時間がかかる。ゆっくりいこう。

出来ないことを晒すのは少しの勇気がいるが、出来ないままでいることを晒すのはもっと勇気がいる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?