樅ノ木は残る #未来のためにできること
山本周五郎の歴史時代小説に「樅ノ木は残った」という作品がある。江戸時代の仙台藩のお家騒動の話である。幕府による藩のお取り潰しの危機、その機に乗じて藩政の権力を手中に得ようとする一派。多くの人の命が失われ血は流れて、宿老原田甲斐は忍従を持って藩を守ろうとする。人は去り、時は移ろい、ただ一本の樅ノ木が静かに残る。
この世界に存在をする体制と反体制。日本の政治にしても、ウクライナの戦争を見ても一つの正義があればそれに異を唱える、反する正義がある。体制があるから反体制がある。一つの正義があれば相反する正義が共存する。当たり前のことではあるが。主体と客体。二項対立の問題は存在をする。いつもありのままに…。
自分はAmebaブログ「沙菜子の和敬清寂Blog」を書いている。その昔、小説家に成りたくて、パソコン通信のオンラインを使った賞獲りレースに参加をした。そこで審査員の小説家の筒井康隆さんから、自分は疎まれる書き手とされてしまった。その体制から排除された。反体制の側の人となった。筒井さんが生きている限り、小説でご飯を食べる日の目を見ることはないだろうと自分は悟った。
メディアの垣根の事を考えることがある。テレビ局とYouTuberは相容れるようでそうではない。Webの書き手と既存の出版メディアもその架け橋になるようなモノがあまりない。だから自分はここnoteに一応書いてみるのだが…。広告代理店の存在、Webマーケットの業界、経済的利害関係は必ずしも一致しない。
自分はまったくの趣味の個人的な備忘録のような私的楽しみのためのブログ「沙菜子の和敬清寂Blog」を配信しているけれど、そこにわたしは、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな意味を込めている。小さなインフルエンサーとして存在をする事を目指して。
歴史上に伝承文学というのがある。文字に表さず人の口つてに(口承文学)口コミで広がる文化文芸のことだ!
その名は残らずとも、日本や世界の良き人としての教えや文化習慣ソノモノが伝承文学のように人の中に目に見えない形であったとしても、そこに残ればと祈る。体制に背いて犯罪のようなモノに走る人間が半分あるとすれば、その反対側には人を守ろうとするために働く人が必ず半分はいる。人の心を癒やして、拠りどころとなる「樅ノ木は残る」そう思ってわたしは今日も生きる。未来のためにできることとして。
文:相田久美子
ハンドルネーム:沙菜子 (36sanako)
何かのお役に立てば幸いと、綴って行く所存で御座います。ご厚情に感謝致します。