メモ一
一
知ることによって、何が変わるだろうか。
例えば普段入っている湯船のなかに無数の菌がいると知って、その前と後とで何が変わるだろうか。
大抵人は、何か気持ちの悪い感じがするだろうし、人によっては入れなくなるということすらあるかもしれない。そのように、知った人は知る前後で変化するのだが、しかし、知ったところで湯船は特に劇的に変わったりしない。滅菌でもしない限りその前と同じように時と共に汚れは増減するだろう。
つまり、知った人の方が「知る」事によって影響され変わっているのだ。そして知ったという事がその人に性質として内包され、そして例えば滅菌するといった事後の行為は、知ったという事を内包した関係性へと変化する。そして滅菌という行動で働きかけることによって対象の性質も変わる。
知る、ということによって、性質として関係するすべてのものとの関係性、そしてお互いの関係性のなかでの性質が変わるのだ。
よく私は、嘘は悪いことではない、と友人に話す。というのも、嘘をついたところで何らかの過去の事象は変わらないし、その嘘をついた人間と関係性を密に持たなければ、あるいは互いにその嘘を無視すれば、そのまま事象は、~が起きた、というような独立的に見える記述のまま保存され、関係性において大して問題はないはずだ。
これが問題になってくるのは、あいつのせいで~が起きた、とか、~が起きたからあいつはクソだ、のような、何かにとっての形容詞や、つまり性質の記述において絶対的視点を置いて対象を規定してしまうときだ。
これは例えば、田中功起氏についての上妻氏のテキストに出てきていたが、皿の性質の話に接続する。いわば、皿とは料理等を載せるものである、という性質を基本的に規定されているが、子供の頃は皿をUFOやCDやフリスビーのようにも捉えていたかもしれない。その後者のような性質の発見は他人に対しても発揮され得る。様々な仕方で関係し、次々にその人の性質が明らかになっていき、既述のように、それにともない関係性も確かに変わっていく。その未確定な性質を発見し続けるような関係性においては、絶対的な視点はあり得ない。たとえば一義的、一面的な関係の仕方では、例え未発見の素晴らしい才能があったとて、固着した一面的な視座からの関係性の中では発見することは出来ないだろう。それがーー大抵の人にとっては皿が皿であるようにーー対象の性質を規定するということだ。
だから、例え何か嫌だと感じる一面が新たに知れたとしても、その対象に元々あった性質を発見したに過ぎないのだ。その対象はある意味その前と変わってはいない。変わるとするならば、いや、変えるのはそれを知ったあなただろう。対象の性質を自らの視点に固定し、その新たな性質によって対象を規定してしまうのか、はたまた、常にさらなる関係の仕方で性質を再発見し、関係性を更新していくか。
安易に記号と対象を結びつけず、例えばその対象となる人を一面的に固定せずに、その人と様々に関係することで、未発見の素晴らしい才能を発掘し、それを活かしてもらう方が、あなたやあなたを含めた社会にとって良くないだろうか。
また、関係性を更新していく、ということ、そこで行われる対象と自己との視点の交差は新たな性質や関係性をつくる。つくるのだ。その可能性を壊してしまうのではなく、ひらいた状態にしておくことで拡張がなされ、そしてつくられた新たなフィクションが、対象から目を離した時に見える、見渡す限り並列している無数のフィクションの内の一つとして、またその無数のフィクションを思い出させ、閉じた一つのフィクションに我々を留まらせないのだ。