哲学的な思考の備忘録 その七 言語批判
この文章は思ったことを書いていく備忘録なので、
行ったり来たり、同じことを書いていたり話が戻ったり、順番に前から読んで先に進むという事もあまりないかもしれません。
また言語批判においてヴィトゲンシュタインという先達がいますが、哲学書を読むのはなかなか体力がいり難しいので、読んだことありません。
有名なので現代の考え方に大きな影響を与えたでしょうから、最近の本などを読んでから書いているこの文章も、少なからず影響を受けているでしょう。
なので後の人がヴィトゲンシュタインの思想をベースに語った事柄を自身の知識として書いているこの文章で、知ったように書いていくかもしれませんし、同じようなことを言っているかもしれません。
先に哲学書を読むのが難しいという話ですが、哲学書を読むとき重要と言われ勉強しなければいけないのが「原書で読む」という事で、英語はもちろんドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語などを理解しないといけないわけです。
日本語の翻訳本が普及してるしそれを読めばいいじゃないという話なんですが、
翻訳本も一つではなく何種類かあり、岩波、角川、講談社など各社から出される名著などもあります。
翻訳者は別です。
翻訳者が別なら翻訳された文章は別です。
翻訳された文章がいくつもあるという事は、理解の仕方、解釈の仕方が少なからず変わるという事で、
そもそも翻訳するという行為は、
「その人が本当に語ったことでなく別の人が解釈しなおした」
という事が言えなくもありません。
最近?経済用語でコミットするとかオミットするとか言ったり、
カタカナ英語が氾濫して知ったような意識高いと馬鹿にしたりする向きもありますが、本質的なことを言うと、
日本語に対応する言語と、その外国語の対応する言語の範囲が、意味が違うのでその単語をそのまま使っている
という事が実際あります。もちろん原典の意味を理解せず使用している方たちも居るでしょうが。
「哲学」という言葉が翻訳され、一般に今なおいったい何を意味するのかよくわからない単語で、経営哲学など別の使われ方があるように、
信号で赤、黄色、青。いや青じゃなくて緑だろう。でもこの場合日本語では青という。
虹は七色?いやうちの国では五色。いや二色。
そういった言語、言葉の意味、範囲というのは社会的、文化的背景に支えられているものであって、その文化にとって必要な言葉が使われるのであって、
その文化にとって不必要なものというのは淘汰されるか、そもそも存在しない、程度のものであって、
まだ見たことのない生物や星に、行為に名前がないように、言語はあくまで必要性によって使用される。
そのため、多くの経済用語(金の貸し借りや株式、保険など)というのは日本において良く発達したのではなく、自国で物を生産し消費してきた日本ではなく、
多くの西欧の文化において植民地などを利用し、自国でするのは金の物流の管理で他国や他人で多くの物を生産する、生産そのものではなく生産されたものをどう扱うかというような経済活動がメインである文化において発達したため、
日本にそもそも適応する言語がなく、そういったことにたけた文化の言語をそのまま使うというのはなんら不思議ではないわけです。
話が少しそれましたが、そもそもこういった事情もあり、翻訳することにより本来伝えるべきの意味、解釈というのは多くの場合、理解することが難しいために、
哲学を勉強するとき「原典で読む」という事が推奨されるのであって、
翻訳された哲学書を読むというのはそもそも意味を違えて理解してしまうという事が少なからずあり、その文化、背景を理解しないと正しく読んだという事にはならない。(などと言いつつ翻訳本を読んでいますが)
一旦切って次に続きます。