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血と肉と息づかいの証明
もっと生々しい文章が書きたい。
今回の記事は、私の極めて個人的な願望について。
私がnoteを始めて早くも4ヶ月が経とうとしています。
思いつきで宅浪の話を書いてみようと思って始めたnoteですが、現在全部で20ほどの記事を投稿することができています。
多くの人に読まれる記事もあれば、あまり読まれない記事もありました。
それらの記事を今一度振り返ってみて、ふと思ったことがあるんです。
もっと生々しい文章が書きたい。
もっと何もかもさらけ出すような文章が書きたい。
今までの私の記事は読みやすさや世間一般の好感度を意識して書いているものが多いです。
それは伝わりやすさという面ではプラスに働いていますが、一方で私という人間の上澄み液だけをすくって書いたような文章になりました。
もっと奥の深い部分にある何かを表現できていないと感じたのです。
読者の方がどう感じているかは分かりませんが、私本人としてはそう感じています。
文章は人に読まれるためにあります。
しかし、人に読まれることだけを目的に書いた文章は総じて薄っぺらくなります。
かと言って自分中心すぎる文章だと、人に読んでもらうという目的が果たせなくなるかもしれない。
私はそういうジレンマと現在進行形で格闘中です。
果たして私が書きたいのはこんなことだったのだろうか。
私はジレンマと闘う中でそう自問しました。
そしてこう思うようになったのです。
私の場合はもっと書きたいように書いてみたらいいんじゃないか。
これは今まで書いてきた私の記事が無益だと思っているわけではありません。
大学受験や浪人についての記事などは、精一杯自分の経験と知識をもとに書きましたし、たくさんの人から反響もありました。
できれば今後も書いていきたいジャンルの一つです。
しかし、
それらの記事には私自身の血と肉と息づかいが足りていないような気がしました。
「有益」なものを書くだけならば、私はchatGPTに完敗します。今や情報はわざわざ人間から引き出す必要も無くなりました。
では、私にあってAIにはないものとは何だろう。
それは今ここに存在している私自身の肉体性です。
そしてそれは人間のもつ不完全性でもあります。
結局のところ、人間は不完全な生きものです。
でも、人間が読みたいのは、同じく人間がもつ不完全性、こじれ、ひねくれ、歪み、そういったものではないでしょうか。
それらを抱え不器用ながらも生きていく人間の物語が読みたいのではないでしょうか。
その人が心の中で血を流した経験、それは有益性、効率性を求める世界では無駄な要素でしょう。それが排除される世界も確かに存在しています。
しかし、
少なくともnoteクリエイターの私たちが、noteに求めているのはそういった生々しい経験だと思うのです。
だから、私ももっと生々しい文章が書きたい。
自分の肉をえぐり出したような文章。
言葉の流星群が降り止まない文章。
例えば最果タヒさんのような。
少しづつですが、そういった文章も書けるようにこれから努めたいと思います。
私のnoteは、
私の血と肉と息づかいの証明です。
今後ともよろしくお願いいたします。